刑の宣告

六月半ばに突然の呼び出しがあった。部屋に通されると軍服をきたソ連人の男が、テーブルの前に立っていた。署名を促され、読んでみるとそれは判決文であった。

「第五十八条 第六項 姓名 赤羽文子

 刑期 五年  釈放される日 1950年10月16日」

裁判はない。質問も、罪状の認定も、証人喚問もない。いきなりの刑の宣告があり、判決理由もない。そして署名をしろと言われたその時のことを赤羽さんはこう書いている。

「言い返す気力も起こらなかった。どうやって署名したのか、その後であの軍人がどう言ったのか、私は一つも憶えていなかった。監房へ帰る足は、奈落の底を踏んでいるようであり、頭は鉄槌でうち砕かれたようだった。私は部屋へ帰ると、寝棚にはい上った。涙がドッと出てきて、私は声をあげて泣いた。止めようとしても止まらぬ号泣であった。チタまで連れて来られたのだから、刑を受けるのは覚悟していた。裁判で筋道を立てて身の証を立てようと、準備を怠らなかった私ではないか。その裁判もない。証拠も示されぬままいきなり五年の判決とは!ひどい!あまりにひどい!五年経てば、私は41歳になる。年老いた両親の顔が目の前に浮かんで、私はまた激しく泣いた。あと五年も、両親に心配をかけると思うと、胸も潰れる思いだった。今ですら、ソ連に消えてしまった私のことを、どんなに案じていることだろう。その苦しみがあと五年も引き延ばされるのだ。(済まない、本当に済まない…。)私の涙はとどめがなかった。」(p.65)

その夏、一片の紙きれが、赤羽さんを未決の日本人から、シベリアでの囚人に変えてしまった。