1964年、6月の終わりに赤羽さんはチタの駅から動物の檻のような囚人列車に詰め込まれ、身動きも出来ないまま悪臭と喉の渇きに耐え、半死半生の苦痛の極みを舐めながらまずイルツークへ移送された。乗り換えて、また牛馬よりひどい状況で折り重なって詰め込まれ、ただわずかな気力だけで次はノボシビルスクへ。炎天下の道では歩くのが遅れれば護送兵に怒鳴られ、犬がけしかけられた。村人たちは遠くから見つめ、ささやき合っていた。中継所に着くと、そこは粗末なバラックだった。そこからさらに、汽車に乗り、更なる中継地点を経て、9月4日にソ連領カザフスタンの「アクモリンスク第十三分所」に着いた。赤羽さんの住居となった女囚のための建物の近辺には千人の女囚が収容されていた。隣には男性ラーゲルもあった。ラーゲル(またはラーゲリ)とは、ソ連時代に体制に違反したとみなされた政治的反対者や戦時捕虜を労働によって叩き直すための「矯正労働収容所」という意味であり、1962年にソルジェニーツィンの発表した「イワン•デニーソヴィチの一日」にその実態が取り上げられている。