3. シベリア抑留者だった叔父

日本人の「シベリア抑留」の悲劇は、戦後75年を迎える2020年現在、元抑留者の他界や高齢化の為、国内で語られる事も少なくなって来ている。この歴史を語り継ぐ事の重要性を踏まえて、このウエブサイトは、広くその事実を世界の人々と共有するために、日英両語のバイリンガルサイトとして作成された。直接の動機となったのは、私の叔父がシベリア抑留者だったという家族の歴史だった。

亡き叔父久芳健夫(1923-1986)(養子になる以前は大島健夫)は溌剌とした聡明な青年で、すぐ上の兄だった私の父にとっては優しく、可愛い弟の一人だった。西洋哲学専攻の大学生だった1943年に学徒出陣で関東軍に配属となり、第135歩兵師団に入隊した。入手した記録によると、戦争終了後おそらく満州の横道河子あたりで武装解除となり、シベリアへ連れて行かれたと思われる。沿海地方のウラジオストクの第13収容所や第14収容所などに収容された。ドイツ語が堪能だったので、その語学力を元にして懸命にロシア語を学び、強制労働の繰り返されるどん底の生活の中で、ソ連の将校のための通訳となったらしい。7年に及ぶ抑留の間にどんなことがあったかは誰もしらない。叔父は一言も語らなかった。叔父は日本に帰国してから新聞記者となり、長い間ロシア特派員の仕事をしていた。小さい頃、この叔父が身近にいたので、私はそれとなくソ連や抑留という言葉を耳にしていた。

1952年、健夫叔父の帰国に際して京都府の舞鶴港まで迎えに行った弟の智夫叔父によると、健夫叔父は複数の前歯が弾丸に打ち抜かれて無くなっており、顔が全く変わってしまっていたそうだ。帰国後、働き盛りには仕事で活躍していたが、健夫叔父の人生にはいつも暗い影があって、父達はいつも心配していた。また、叔父は新聞記者という著述業に従事していたにもかかわらず、自身で抑留の体験について書いたことは一度もなかった。私の父は最愛の弟をいつも思いながらも、その人生の暗転をどうすることもできずに苦悩し続けていた。そして健夫叔父は肺癌で63歳の人生を閉じた。炭鉱で毎日八時間の作業をマスクもつけずにさせられた抑留者達は、のちに肺の機能障害になり、帰国後も早い時期に死を迎えた人が多いと聞いている。叔父の肺癌はそのせいだったのか、喫煙のせいだったかはわからない。ただ一つ、その叔父が死の直前に再び聖書を手に取り、神への感謝と共に人生を終えたことを聞いた時、私はその純粋さに衝撃を受けた。知らぬうちに引き込まれて行った底知れぬ暗闇の中で、一筋の光が最後に訪れた。何という長い時間、何という苦悩の中で叔父はその時を待ったのだろう。その時の哀しさと感動が、今も私のこの仕事の原動力となっている。

第二次世界大戦については、今後も国際間で語り続けられて行くことだろう。しかし、どのような戦争の勃発にも指導者層の高い政治的判断があり、それとは違う次元で知らず知らずにそれに巻き込まれて行く無数の罪のない民がいる。

シベリアで健夫叔父に何があったのか。叔父の沈黙には何が隠されていたのか。どんなに問いかけてももう答えは返って来ない。もっと事実を知り、叔父の書かなかった真実が何か私に書けるだろうか。そして戦争の非を自分の言葉で伝えることができるだろうか。私のシベリア抑留を知る旅は、そうして始まった。