われわれは抑留者か捕虜か

昭和20年8月9日、突如としてソ連軍が満州と北朝鮮・千島・樺太の国境を越えて侵入して来た。ソ連軍の侵入は、日ソ不可侵条約の蹂躙である。関東軍は60万人と言われていたが、もはや精鋭を誇った昔日の関東軍ではなかったし、国境の備えは苦もなく破られ、ソ連機械化部隊は怒涛のように南下して来た。

しかし、関東軍からわれわれの軍に出された命令は、誠に面妖なものであった。通常ならば、当然、なんかするソ連軍を撃退せよということになるはずであったが、実際に出された命令は、「ソ連軍に抵抗しつつ、次第に後退せよ」というものであった。

この命令を聞いた時、われわれは、不思議に思うと同時に、ああやっぱり米軍の短波放送どおり、日本は近く降伏するんじゃないかなという気がした。

北朝鮮の第34軍の隷下部隊がどのように戦ったかは詳らかではないが、清津でのように、敵の上陸部隊を撃退したところは他にもあったらしい。終戦となって、前線にこのことを伝えに行った軍司令部の将校が、敵のスパイにされどこかの部隊長に射殺された。それでやむなく、竹田恒徳王に、急遽関東軍の参謀になっていただき、飛行機で前線に飛んで、部隊を納得させたという話も伝わってきた。降伏するなどということが信じられない人が多かっただけに、混乱状態になったことは致し方ないことであった。

我々は、戦陣訓で「生きて捕虜の辱めを受けず」と言われ続けていたし、また、戦闘中に白旗を掲げて捕虜になるなどということは思いもよらないとしていただけに、捕虜であるかないか、については大変深い関心を持っていた。

この間、鈴木貫太郎内閣は、8月6日の広島への原子爆弾の投下、同日、中立条約を反故にしてのソ連の参戦(満州等への侵攻)に衝撃を受け、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、翌日連合軍に打電、さらに14日、天皇の命令で改めて開かれた御前会議で宣言受諾が決定され、詔勅が発せられた。

そして、関東軍については昭和20年8月12日夜半、山田総司令官の元に大本営から戦闘行為停止の軍令が届き、同時に8月15日正午以後に降伏した軍人、軍属は俘虜とみなさない旨の通達があったという。

さらに、同月19日、ソ連軍極東総軍第一方面軍戦闘司令所で、ワシレフスキー元帥と関東軍の秦彦三郎参謀長とが会見し、武装解除の要領、治安の維持、在留邦人の保護等につき協定が行われた。その際、わが方が、停戦後の軍人、軍属は俘虜ではないと主張したのに対し、ロシア側は俘虜であると断じ、在留日本人については、その保護の責に任ずるが、内地送還については自分に権限がないのでモスコウに取り次ぐという言質しかえられなかったという。

ソ連軍に抑留されるようになってからも、われわれは面と向ってソ連軍の指揮官達にもこの問題を何回となく持ち出した。彼等は、完全に戦闘が停止したのは9月3日だったという。だから、ソ連流に言えば、たとえ大本営の命令によって8月15日に無条件降伏をしたにせよ、9月3日までは戦闘が継続していたのだから、われわれは国際法にいう戦時俘虜だということを主張していた。

ソ連側はわれわれの主張を認めなかったが、もう一つこんなことも言い出した。つまり、あなた方は捕虜だからこそ将校としての待遇を受けている。帯刀を許されているのもその一つだ。たんなる抑留者になると、そういう体面も待遇も認められなくなると。変な理屈ではあったが、抑留当初しばらくの間は、たしかにわれわれ将校は帯刀を許されていた。

戦場では、先祖代々伝わる刀を軍刀に仕込んで腰に吊っている人が多かった。私も、叔母が相州鎌倉の2代国宗の刀を餞別にくれたものを父が軍刀に仕込んだものを持っていた。尺8寸、ちょっと短いが、細身ながらまことに美しい古刀であった。関の孫六や備前長船のものを自慢げに見せてくれる将校もいた。

しかし後に、興南の港からボシェット軍港に上陸し、クラスキーノでテント暮しを始めて1ヶ月後の12月初め、いよいよシベリア鉄道の貨物列車に乗せられるようになった時、全員の刀は取り上げられた。それが刀との別れであった。

関東軍の将校は2、3万人いたのではないか。下士官も軍刀を帯びていた。かなりの名刀がソ連軍に没収されたことになる。平成3年、ゴルバチョフ大統領来日の際に締結されたソ連抑留者に関する協定において抑留者が遺したものは返還することになっていたが、軍刀は1本も戻されなかった。

後年、モスコウで外務省や内務省の役人と面接した際、「刀などがあるはずだが返してもらいたい」と言ったら、「さあ、今となっては何処にあるか、わからない」と、とぼけた返事しか返ってこなかった。ソ連の兵隊は時計でもなんでも眼につくいいものは皆「ダワイ(よこせ)」と言ってかっぱらっていったから、刀など返すはずはないと思ってはいるが。

しかし、俘虜であるか、ないか。論争しても、先方が譲るはずはなかったし、いくら理屈をこねても所詮ムダであった。ただ、そういう議論をしたことは、ソ連軍も認めているようであった。後に述べるが、ソ連邦内の収容所に移されてから、現地自活に必要な範囲内において、労働に服する旨の署名をソ連側が要求してきたのも、われわれの国際法規論争が頭にあったからかもしれない。