西から東に走る囚人列車

われわれの列車は、いわば囚人列車である。しかし、おかしなもので、われわれが運ばれている貨物列車とソ連人の本格的な(?)囚人列車とは明らかに区別されていた。無論囚人列車の方が警戒厳重であった。

帝政ロシアのツァーがシベリア鉄道を建設する際に、追放された沢山の流人を使ったと言われている。否、シベリア鉄道の建設を進めるために、沢山の罪人をつくって、シベリアに追いやったのではないだろうか。

帝政ロシアはソ連邦に変わったわけであるが、シベリアの開発に囚人を使うという考え方は昔のままである。最も、よほどのことがなければ、普通の人間はシベリアで働こうなどという気は起こさないのかもしれない。

囚人列車は、西から東へ送られてくるが、われわれの貨車は東から西に走る。1 日にいくつもの囚人列車と行き違うことがある。囚人列車には鉄条網が張り巡らされている。そのうえ、日が暮れると各車輌にはまばゆいばかりのライトがつく。駅に着いても囚人達を外に出さない。脱走しないようにじつに厳重な警戒をしている。

われわれは逃げる気遣いはないと思われていたのだろうか、列車に鉄条網も張ってなければライトもつけていない。駅に着けば、いくらでも外に出られる。囚人列車と隣り合って停車することがある。われわれは貨物列車に開けられた窓から顔を出している囚人にたどたどしいロシア語でいろいろと質問をした。どんな罪を犯したのか、が質問の中心であったが、聞けば大したことではない。例えば20 ルーブル(当時公的レートでは一ルーブル90 円、実際はもっと価値が低い)盗んだというようなことで、シベリアで15年の懲役だと言う。囚人を沢山つくるために罰しているようなものであった。

彼らはろくな防寒具をつけていなかったし、もちろん食事も粗末きわまるものであったろう。しかし、彼等の表情は締め切っていて、それは、中国語でいう「没法子(メイファーズ)」ロシア語の「ニ・チェヴォー」という心境であったのであろう。

そういえば、ソ連人は、この「ニ・チェヴォー」という言葉をしょっちゅう使う。日本語でいうと、「なんでもない」「仕方がない」「エエ、ままよ」といったような意味である。こういう言葉を絶えず使うということは、厳しい自然の脅威のもとに日々生活しなければならないロシア人の境遇からもきているのではないかと思う。

ともあれ、このニ・チェヴォーの囚人達はまことにおびただしい数であった。私は当時、何故ソ連が終戦後になって関東軍の将兵をシベリアへ運び込んだかよくわからないと思っていたが、本当はシベリアの開発に若い労働力が喉から手が出るほどに欲しかったのではないかと思う。関東軍60 万人と言われた将兵は大変魅力のある労働力であったに違いあるまい。

囚人列車のメンバーは男だけでなく、うら若い女もかなり混ざっていた。無論、貨車は男と別であったが、冬というのに薄い洋服で、豚のように貨車に詰め込まれていた。そして、われわれを見かけると口々に挑発的なみだらな言葉を声高く投げかけてきた。

ソ連の兵隊は、われわれが「おま×こ」帽と呼んでいた庇のない帽子をかぶっていた。何やらよく似た格好をしていた。女の囚人は、その本物をわれわれに見せるからこいという。一発やらないかとも言う。われわれはニヤニヤ笑うばかりで答えようがなかった。