vi. その後

赤羽さんのもう一冊の著書「生きながらえて夢」から、その後の事がわかった。

1冊目を読み終えて,ついに日本に戻れることになった赤羽さんには、どんな人生が待ち受けていたのか、私は一刻も早く知りたかった。この本の表紙には「菊の刺繍」の写真がある。一指し一指し丁寧に刺されたこの気高い日本の菊が、長い間の厳しいシベリア生活の中でも忘れることのなかった赤羽さんの気品の象徴であった。 私はその美しさに見入った。

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日本への帰国者はまず全員ハバロフスクに集められた。そこの収容所に二ヶ月いる間に赤羽さんは収容所で俳句のクラブに入った。その幹事の坂間少将という人にそこで出会った。ようやく日本海を臨むナホトカ港に日本から興安丸が迎えにきてくれたのは昭和三十年。大連から連れ去られて十年。舞鶴の港には妹が迎えに来てくれ、二人は抱き合って再会を喜ぶ。だが、そこは赤羽さんの育った大連ではなかった。自分の戸籍がある日本に帰れたということで、気候の違う日本に住むのは初めての経験だったのだ。だが、ビクビクしなくてよい生活が始まることは心底嬉しかった。

目に映ったのは、品物の溢れている店。もんぺ姿の女は見当たらず、華やかに化粧をした女達や色鮮やかなジャンパーの男達。真面目な赤羽さんは、もっと地味な物を期待していた。その頃シベリア抑留者帰還促進会という集いがあり、気の毒な残留者の一日も早い帰国のために、政府や国民に熱心に働きかけていた。赤羽さんはその会で坂間さんと再会した。一年早く帰国した坂間さんは帰国途中、船中で妻の死の知らせを受けた。赤羽さんはその後母を亡くした。帰国後三年後、天皇誕生日の四月二十九日、東京の明治神宮で、赤羽文子は坂間訓一の妻「坂間文子」となった。

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その後の文子さんは坂間さんのお嬢さんだった雅さんという家族に恵まれ、少しずつ日々の生活にも慣れていって、幸せな時を過ごされたと思う。兼松貿易会社でロシア語通訳者として5年勤めたし、坂間氏は洗濯、物干し、ゴミ出しと、細やかな手伝いをしてくれるよい夫であった。また坂間氏は晩年はブリタニカ百科事典の国際日本版編集に加わったので、その仕事を文子さんも手伝って一緒にやった。雅さんに寄れば、文子さんは人生の終わりの頃にシベリア抑留当時について特に恨んでいるような様子は見られず、実生活の中ではシベリア時代に楽しんだボルシチや塩ニシンの氷結、キャベツのザワークラウト風などを懐かしんで作り、ロシア料理も楽しみに食べに行っていたそうだ。坂間文子さんは享年98歳。シベリアでの辛苦を超えて、1998812日にその生涯をそっと閉じた。