そのラーゲルでは、赤羽さんは刺繍工場で働くことになった。日課は次の通り。
朝六時に起床。七時には仕事へ。門前に整列して点呼。その時にはいつも警備隊長がこのように言った。「囚人部隊、気をつけ!行進中には縦隊の秩序を厳格に守れ!隊を崩すべからず!話し合うべからず!よそ見するべからず!左右に一歩でも出ようものなら逃亡とみなし、警戒兵は無警告に発砲する。」それから歩いて五分の工場へ。午前十時に十分の休憩。十二時に午前中の仕事が終わり、ラーゲルに帰って黒パンとスープ、油が一滴だけかかった粥だけの昼食をとる。午後一時、作業再開。五時に仕事終了。夕食はいつも同じものに、たまにキャベツ、人参、砂糖大根を切った酸っぱく塩からいピンク色のサラダ。午後九時に最後の点呼の後、午後十時消灯。鉄条網はあったが、チタに比べると、自由時間は開放感があった。
ラーゲリでの生活に関して赤羽さんはこう書いている。「ここでの食事は、全くまずしかった。スープは味がなく、固い塩漬のキャベツと人参が沢山入っている。匙でかきまわしてもジャガイモのかけらも引っかからぬ時は、思わず涙がこぼれてくることがあった。」「便所に自由に行ける喜びは大きかった。ラーゲルの便所は、これまた妙な造りで、通路をはさんだ両側に、直径30センチほどの丸い穴が、七、八個ずつ並んでいるだけ。間の仕切りはない。しゃがむと隣りの人とすれすれになった。その上、手を洗う設備も全然ない。」「気をつけて見ていると、カザフの女性が大勢いた。ソ連人の方では、これら少数民族は文化の程度が低いといい、アジアータと呼んで区別していた。ラーゲルには、ソ連人の他に、色々の民族がいた。ドイツ人、ルーマニヤ人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ、ラトビヤ、リトワニヤの人々、チェチェン人、タタール人、トルクメン人、アセルバイジャン人、アメリカ人、フランス人。(日本人は赤羽さんただ一人であった。)何の罪でここに連れてこられたのであろう。ソ連の事情に疎い私も、こうした大量の女たちを見るにつけ、何か暗いものを感ぜずにはいられなかった。」「暗い気分になったことはまだあった。ラーゲルについて間もなく、私はセーターを一枚と、大切な衣類二、三点を盗まれたのである。」「更に困ったことのは、眼鏡を盗まれたことだった。たった一つきりの大事な眼鏡! 15の時から乱視の私はこれがなくては空のお月様も十個ぐらいに見えるほどだった。私はクロスステッチをやりたくても、できなかった。」「私は小さな、みすぼらしい女であった。美しい顔も、豊かな胸も腰も、女の魅力といわれるものは何一つなかった。若い頃は鏡を見て、もう少し美人だったらと、何度思ったかわからない。その不器量が、かえって今までの私を守ってきたとも言えるだろう。ラーゲルで、若い娘が侵されないことは不可能に近い。私は自分に魅力のないことを、かえって幸せと思っていた。」
ラーゲルには、年に一度、予告なしの持ち物検査があった。自分の持ち物は全て外へ運びだし、わら布団も丼もみな、土の上に並べて検査を受ける。その間に所持品を盗まれてしまうこともあるし、禁制品が万が一見つかれば、刑が追加される。虱の検査もあった。熱気消毒で衣類の虱は死んでしまうが、頭にわいた虱が発見された女囚は髪を切られてしまった。南京虫の検査もあった。見つかれば、徹底した南京虫退治が命ぜられたが、薬品など、一つもない。それで、ベッドの板を戸外に運びだし、思い切り高く持ち上げ、地面にふり落として、南京虫をふり落とすのだった。
バラックの中は、チタの監獄とは比べものにならないくらい寒かった。百人に一つ小さなペチカがあるだけで、赤羽さんは、室内でも綿入れの労働服を着て震えていた。隙間風吹く丸木小屋のバラックの乏しい暖房の中で囚人たちが凍え死ななかったのは、多人数が二段ベッドに、ぎっしりと詰め込まれていたせいであった。人いきれが暖房の役割をしていたのだ。冬には赤羽さんは、奉天でもらった旧日本兵用の防寒帽と軍靴と苦力服を着ていた。小さい体に全然合っていない男物を着ていていたので、ひときわ、みすぼらしく見えた。しかし、赤羽さんはこれは恥とは思わず、「これは自分の仮の姿だ、自分の本当の姿は別にあるのだ」と思って辛抱した。(p.98)
入浴は週一回。ラーゲルから一キロも離れたところに、雪の中を行進して行った。
中には杖をついた八十歳に近い老婆もいて、遅れがちになっては警戒兵に怒鳴られていた。風呂場にたどり着くと、脱いだ服をまず熱気消毒して、女囚は裸のままずらりと椅子に並んで座り、一時間ほど待たされた。色々な肌の色。飛び交うおしゃべり。うんざりするような長い待ち時間の後やっと浴室の扉が開くと、消しゴムほどの小さな石鹸をもらって、皆浴室へとなだれこんだ。浴室と言っても浴槽はなく、湯桶に二杯お湯をもらって、それで髪から身体まで全部洗うという「入浴」であった。そしてまた再び一キロの道を歩いて帰り、バラックについた時には、身体はすっかり冷え切っていた。