佐野ピーターインタビュー II

ピーター・厳(岩夫)・佐野氏 シベリア抑留体験を語る その2  抑留経験と考察

 

インタビュー 実施: 平成26年9月10日

場所: カリフォルニア州 佐野宅

語り手:  ピーター・厳(岩夫)・佐野氏

「シベリアでの1000 日」 著者。 1924年カリフォルニア州ブローレー市生まれ。 後15歳の時、日本の叔父叔母の養子となり、日本の市民権を取得。第二次世界大戦中徴兵、満州へ。戦争の終結後、シベリアへ抑留され後に日本へ帰還。その後米国へ帰国し市民権を再取得。カリフォルニア州パロアルト市で建築設計士を長年務め、定年退職。

 

構成/英文和訳/聞き手: 榊原晴子   

東京都出身。 カリフォルニア大学東アジア言語文化学科日本語専任講師。

平成27年に「日本人のシベリア抑留」について日英両語のウエブサイトを出版。

叔父がシベリア抑留者であった。

 

 

インタビュー2より抜粋

他の抑留者の書いた本を読んでわかった事を含めると、三つの問題があったと思います。まず食料の欠乏、それから厳しい寒さ、そして過酷な労働です。私の場合は1945年9月にシベリアに着いてその年の終わりに初めてのシベリアの冬を迎えました。

11月と12月はシベリアは本当に寒いんです。その間が私が寒さに一番困った時でした。一日中零下40度、50度、60度の中で働かされていた人達には本当に想像を絶する寒さだったと思いますよ。

食料の取り合いはするしすきがあれば人の食料を盗む人もいました。でも、本にも書いた通り、食料の不足はわざと我々だけが苦しめられていたという事ではなかったのです。彼等自身も食べる物がなかったんです。

初めはクラスノヤルスクという大きな町でした。初めの冬に外で仕事をして病気になってしまい、そこで5か月入院したんです。 二つ目の所はスタリンスクという鉱山です。労働は厳しかったけれど、野外に比べれば暖かい所でした。どんなに寒くても地下におりれば65度ぐらいでしたから。

「私が今まで聞いたところによると、同じように両親から日本に行くように言われた時にそれを断固として拒否して絶対に従わなかった方達もあるんです。でも、あなたは違いましたね。従順に親に従った。そして日本に行ったら、また従順に、他の日本人と同じように日本政府の命令に従い、兵隊となった。でも、ご著書の一番最後を読むと、ベトナム戦争に反対する行動を起こした、と書いてありますよね。末の娘さんと一緒に戦争反対のデモに参加したりされていますよね。どうして突然、このような変化があったんですか?」

「アメリカに帰ってみたら、車のバンパーに『権威者に疑問を投げかけよう!』というシールがはってあるではありませんか。それからもう一つはパロアルトにある教会で、父子共にベトナム戦争反対のデモに参加したために監獄に入れられた人達に出会ったんです。スタンフォード大学で教えている人でしたが、彼はニューヨークの神学校でも教鞭をとり、 選挙権が問題になっている時に南部へ行っていたんだそうです。それはとても危ない経験だったそうです。 その時、南部では市民選挙で学校での人種差別を撤廃する方向に持っていこうとしていました。彼はそのただ中に、自分の命をかけて出かけて行ったんです。すごく危ない橋をわたったらしいんです。彼のおかげで、私は色々な意味で変わったんじゃないかと思うんです。それで、権威者から言われる事に全て従っていた前の時代とは変わって、私は権威者から言われる事に、まず疑問を持つようになったんです。」

 

インタビュー2

榊原:では、ピーター佐野さんのシベリア抑留体験のインタビューを続けさせて頂きます。佐野さんがシベリアに行かれた時はもう第二次世界大戦は終わっていたので戦争捕虜という訳ではありませんでしたね。戦争終結後その地域にいた日本人の男性はみなさん日本に帰国できるはずでした。しかし突然ソ連軍の侵攻があり、みなさんシベリアに連れていかれてしまったわけですね。佐野さんはシベリアの収容所にいた間、ご自分の立場は「捕虜」と「抑留者」のどちらに近かったと思われますか。

ピーター佐野:「捕虜」とは呼ばれたくないという日本人の言葉の選択の問題は他の本を読んでいるので、知っています。でも、日本人は戦争が終わった時の「降伏」という事実も「降伏」とは呼ばずに、「終戦」という表現を好みますよね。どうして「終戦」ではなく「敗戦」とはっきりと言えないのでしょうか。戦争に負けたのだから、「敗戦」という事ではないか、と思うのです。その辺、日本人の言葉の選択の必要以上の配慮には疑問を感じています。

榊原:では、実際には「捕虜」という言葉の方が適切だったとお考えですか。

ピーター佐野:その方が適切な表現だったと思う人達もいましたよ。それから、満州にいた兵隊など、腹切りをしたり拳銃で自殺をしたりした人もいたんです。

榊原:それは突然のソ連侵攻の時に起きた事だったんですか。

ピーター佐野:そうです。それから天皇陛下の敗戦の玉音放送の後にもありました。私はあれは2、3日後まで聞かなかったんです。私自身は玉音放送の三日後ぐらいまで日本が降伏した事実を知りませんでした。でも、とにかくなぜ日本政府などは敗戦とか捕虜といった言葉を受け入れられないのか、私にはよくわかりません。

榊原:それでは、シベリアでのご経験の色々な状況について伺わせて頂きます。まず、ソ連に捕えられたと気付いたのはいつだったんでしょうか。

ピーター佐野:それは私が山から降りた時でした。私達が聞けなかった玉音放送の一日後だったと思います。電車に乗った時、たくさんの日本人の避難民を目にしたんです。もう日本は降伏したということを私達は知らなかった訳ですが、その時はソ連の兵隊もまだ見えませんでした。それから二日後、 ハイラ-という大きな町に向けて行進している時、ソ連兵が私達の横を通ったんです。その時が初めて戦争に負けて捕虜になったのだ、と実感した時です。そして門があいてそこに入った時、ドアが私達の後ろで閉まったんです。その時我々は戦争に負けた事、囚われの身になった事を思い知らされました。

榊原:シベリアはとても厳しい気候だったと思うのですが、生活や労働にどのような影響があったのでしょうか。

ピーター佐野:11月と12月はシベリアは本当に寒いんです。その間が私が寒さに一番困った時でした。でも一番寒かったのは鉱山で働いていた時です。夜勤で午後4時から深夜12時まで働かせられました。その仕事を終えて収容所に戻ると、もう深夜を過ぎていたんです。収容所の門を通り過ぎる時そこに温度計がかかっていて、兵隊が「今零下63度だ」と言ったのを覚えています。あれは摂氏だったので、華氏だったら、計算が正しければ零下79度という事です。

それが私には一番寒かった時ですけど、常に屋外労働だった人達の事を考えると、寒さは実に厳しかったんじゃないかと思うんです。私の場合は鉱山への行き帰りだけだったし、さほど遠くはなかったんです。が、一日中零下40度、50度、60度の中で働かされていた人達には本当に想像を絶する寒さだったと思いますよ。

榊原:ご著書の中で食料を確保する方法について何度かお書きになっておられますね。その事も話して頂けませんか。

ピーター佐野: ええ、確かに食べ物の不足については細かく書きましたね。日本には「武士は食わなど高楊枝」ということわざがありますよね。「侍は食べ物がなくとも楊枝を口にくわえ十分食べたふりをして、ひもじさを人にみせるな。」という意味です。

シベリアではそんな事はもうおかまいなしでした。食料の取り合いはするしすきがあれば人の食料を盗む人もいました。でも、本にも書いた通り、食料の不足はわざと我々だけが苦しめられていたという事ではなかったのです。 彼等自身も食べる物がなかったんです。工場に労働に出た時にロシア人の持って来る昼ご飯を見ると、我々が食べているのとあまり変わらなかった。畑に行った時には、農民達が何かを採っている。それはその前年に収穫されなかったじゃがいもだったんです。あまりの空腹に彼等はその前の年に収穫されなかった物の古い残り物を食べていたという事です。それを家に持ち帰って料理して食いつないでいたんです。そんなだったので、食料事情はどこでもひどかった。でも、一番ひどかったのは最初の年で、あとは徐々によくなりました。充分に食べられたという事は一度もなかったけれど、あの初めの冬の酷さは後はなかったです。本で他の方の抑留体験を読むと、帰国がかなって初めて口にした白い米のご飯が何とおいしかったか、とみんな書いていますよ。でも三年たって日本に帰ってみると、日本でも食料事情は大変な問題だったんです。ロシア米もあって、またロシアの食料を食べる事になったし。汁に芋を入れて食べてたんですよ。食べ物が足りなくて。

榊原:収容所は何カ所行きましたか。そこでの強制労働はどんなものがありましたか。そして一番つらい労働は何でしたか。

ピーター佐野: 一番寒かったのは初めに行った所だと言いましたよね。あと他に二カ所行ったんです。初めはクラスノヤルスクという大きな町でした。初めの冬に外で仕事をして病気になってしまい、そこで5か月入院したんです。でも退院したらもう少し増しな仕事につけました。鋳造所でした。それから田舎の方にある集団農場にも行きました。本の校正者が「環境が変わったら、まるで夏のキャンプに行っているみたいになったね。」とコメントしていました。

二つ目の所はスタリンスクという鉱山です。労働は厳しかったけれど、野外に比べれば暖かい所でした。どんなに寒くても地下におりれば65度ぐらいでしたから。その収容所には日本人の船大工がいて日本式のお風呂を作ってくれたんです。大きな風呂で、6人ぐらいがいっぺんに入れた。労働から帰るとその日本式風呂に入れたんです。それに鉱山にいたので、風呂をわかす石炭にはことかかなかったんです。そんな点で、あそこはよかったんですよ。

榊原:終わりの頃マラリアで大変でいらしたですよね。収容所ではそういった病気はどのように扱われていたんですか。

ピーター佐野: よくある事だったんですよ。薬の名前、覚えてないんですけどみんなが言ってる黄色い薬があって、初めに熱が出た時それを飲みました。それで、本にも書きましたが、飲んでいない時にも気分がよかったので、もらった薬を飲まないで、吐いて捨てていました。それで、病人の名簿を作っている時に丁度よく熱が出たりしたので、うまい具合にその名簿に名前がのったんです。実際私が日本に返された時に一緒だった人達はみな栄養失調でした。私はそうではなかった。熱のおかげで名簿にのせられたんですよ。

実は日本に帰って来た後でも、同じような熱が二回出ました。従兄に医者がいたんですが、その友人でマラリア患者に効く薬を研究している人がいて、まあいいから飲んでみないかと言われてね。でも帰国後二ヶ月の間に二度その熱が出たんですよ。でもそれだけでした。病気が治ったのかその薬が効いたのかはわからないけれど、あとはもう大丈夫でした。

榊原:ご著書の中に違う収容所でそれぞれとてもよくしてもらった仲間がいた事が書いてありましたが、その方達とまだ連絡がありますか。その方達についてどう思っておられましたか。

ピーター佐野: 一番世話になったは太田さんです。太田さんはもう大学を卒業したお子さんがいたから、私より年上でした。その人が一番助けてくれたので、本にも頻繁に名前が出て来ます。私が初めの冬に病院から退院して帰って来た所の本部にいて、人事関係の仕事をされていたんですよ。それで私が適切な所に行けるように計らってもらえて、農場にもそれで行けたんです。太田さんとは後で連絡がとれました。1949年に日本に帰った後、何人か収容所で一緒だった人達から葉書をもらいました。東京、鹿児島、熊本、静岡から一枚ずつ。でも返事は書かなかったんです。というのは、その内の一枚に「同胞よ、帰国した今日本の為に友に働こう」と書いてあったて、共産主義っぽかった。私は米国に帰るつもりにしていたし、この人達と誤って連絡をとって米国に帰れなくなってはいけないと思ったんです。それでその返事はしなかったんですけど、何年もたってから妹に頼んだら、鹿児島にいた太田さんと連絡がとれました。降伏の後、同じ所に住んでいても、住所が少し変わったりしていたんです。それで次に日本に行った時会えるように吸収の鹿児島まで飛行機で行きました。それである日会えたんですよ。そして、太田さんに感謝を伝えられた。そしてアメリカから私の母も太田さんに感謝状を書きました。母はまだ発行はしていなかったけれど私の書いた物を読んで、太田さんにとても感謝していたんです。そしてずっと後で東京にいた人とも連絡がとれました。その人がずっと私にシベリア収容体験者の本を送ってくれるんですよ。もう100冊以上になります。最近わかったのですが、もう一人のちょっと赤がかった人は亡くなったそうです。赤ではなかったかもしれないけど。もう一人は手紙を出したら奥さんから返事がありましたから、ご主人に生前お世話になった事のお礼を書く事ができました。それで気持ちが落ち着きましたけど、太田さんにはいくら感謝してもしたりなかったと思っています。

榊原:まだご存命なんですよね。

ピーター佐野:いいえ、亡くなられたんです。

榊原:そうだったんですか。じゃ鹿児島でお目にかかれた時、とても喜ばれたでしょうね。

ピーター佐野:ええ、嬉しそうでしたよ。

榊原:それはよかったですね。ところでこれが最後の質問になります。今ふりかえってみると、シベリアでの経験がその後の人生にどんな影響を与えたと思われますか。それからもう90歳を越えておられるそうですが、今後の若い世代に何かメッセージがおありでしょうか。

それは難しい質問ですね。それにみなさんにお伝えするような名言は私には言えないかもしれません。ただ一つ、一年前に経験した興味深い事をお話しましょう。それは、アメリカで起きた日系人収容に関する研究をしていた人に出会った時の事です。その方が、自分は直接は関係しなかった事だけど、私にインタビューを依頼してきたので、 それに応じたんです。彼は私の書いた本も既に読んであって、その中で色々な事を話しました。 そして、最後にとても簡単な質問をされました。今まで色々なインタビューに応えて来たんですが、このような質問は実は初めてでした。「ご著書を読んだのですが、佐野さんは日本に行くようにと両親に言われた時、何も言わずに従い、そのまま日本へ行かれましたね。私が今まで聞いたところによると、同じように両親から日本に行くように言われた時にそれを断固として拒否して絶対に従わなかった方達もあるんです。でも、あなたは違いましたね。従順に親に従った。 そして日本に行ったら、また従順に、他の日本人と同じように日本政府の命令に従い、兵隊となった。でも、ご著書の一番最後を読むと、ベトナム戦争に反対する行動を起こした、と書いてありますよね。末の娘さんと一緒に戦争反対のデモに参加したりされていますよね。どうして突然、このような変化があったんですか?」こんな質問は初めてだったので、はたと考えさせられてしまいました。そして、すぐにこう答えました。「日本に行った時は確かにそうでした。 

ピーター佐野: ある賢明な人が、こういう場合にはあれこれ言わずに、親の権威という者を尊重すべきだと教えてくれたんです。でも、アメリカに帰ってみたら、車のバンパーに「権威者に疑問を投げかけよう!」というシールがはってあるではありませんか。それからもう一つは、パロアルトにある教会で、父子共にベトナム戦争反対のデモに参加したために監獄に入れられた人達に出会ったんです。スタンフォード大学で教えている人でしたが、彼はニューヨークの神学校でも教鞭をとり、 選挙権が問題になっている時に南部へ行っていたんだそうです。それはとても危ない経験だったそうです。 その時、南部では市民選挙で学校での人種差別を撤廃する方向に持っていこうとしていました。彼はそのただ中に、自分の命をかけて出かけて行ったんです。すごく危ない橋をわたったらしいんです。この人は教会で出会った人だったし、息子達もたまたま同じ年だったのでお互いに知り合う機会に恵まれました。 そして、私は彼に本当に深い敬意を抱くようになったんです。 彼のおかげで、私は色々な意味で変わったんじゃないかと思うんです。それで、権威者から言われる事に全て従っていた前の時代とは変わって、私は権威者から言われる事に、まず疑問を持つようになったんです。実際、その頃美奈子(奥様)と私はよく話し合ったものです。自分達はアメリカ市民だから、戦争に反対したりして政府の方針に反する行動をとるのは、危ないのではないか、と。でも、とてもよい友人で弁護士の人がいて、「もし自分の信じる事があれば、それに従って行動すればいい。もし裁判になるような事があったら、私があなたを守ってあげるから。」と言ってくれたんです。そんな立場にたってくれる素晴らしい友人達ができたんです。それで、最後の質問に対してのお答えですけど、シベリアでの体験そのものが私を変えなかったというわけではないんですけれど、むしろシベリアから帰って来た後、あの時あった事の様々な苦痛を折々に思い起こしながら、今もあの時の事が色々な形で私の中にあると思っているんです。

榊原:貴重なご経験をお話し下さり、本当にありがとうございました。

ピーター佐野:こちらこそ。