1. 女性抑留者について

シベリア抑留者の中に女性がいたことは、今まであまり知られていなかった。が、2014年7月26日の読売新聞に、「看護婦の証言」という記事が掲載された。ついで、同年8月にNHKで「女達のシベリア抑留」という二回のシリーズで放映され、女性抑留者達の証言が歴史的事実の裏付けと共に公表された。新聞記事は次ページにそのまま紹介。そして、NHKの番組については、大変貴重な内容なので、その概要をここにまとめてみたい。
 
ロシア軍事アカデミーのウラジミールガリツキー海軍大佐は、初めて日本人の女性抑留の問題に触れ、公式にはわかっていないが、第二極東戦争の捕虜の中に367名に女性がいたと語った。1945年11月11日までにその内102人が解放、110人が中国側に引き渡され、155人が収容所に送られた。
 
NHKの取材班は日本人抑留者70万人の公文書が保管されていたロシア国立軍事公文書館で、8名の女性のファイルを発見した。分類には性別が記載されていないので、抽出が難しい。
 
それらの女性達は、終戦時に撤退が間に合わなかった看護婦達、軍の補助的役割を担っていたタイピスト、秘書、大使館の日本語教師などであった。女性の抑留に関しては、1945年9月2日スターリンの極秘指令9898には指示されていない。日本人抑留の目的は石炭、鉄鉱石など資源の豊富なシベリアを開発させる重労働が目的だったので、この指令に書かれていた50万人の日本人の抑留の目的の中には女性は考えられてはいなかったようだ。だが、スターリン文書の目標を果たすために、現場の指揮官が、軍事捕虜として男性と共に女性であっても連行したと考えられる。
 
その中には「反ソ活動計画」という名目で裁かれた受刑者達もいた。 適応されたのは、ロシア刑法第58条による「反逆罪」。その結果1946年から1955年まで10年の間、帰国のかなわなかった女性もある。また、日本への帰国後、故郷の人々に「罪人」として後ろ指をさされる恥を恐れ、家族の恥ともならぬよう、獄中よりロシア国籍取得を願い出て、一生日本へ帰らなかった人もある。本当は、当時マッチ箱一つ盗んでも10年間の投獄となったソ連の法律をそのまま日本人に適応するのではなく、国際裁判がされるべきであった。その結果送還されたアレクサンドロフスク監獄は、厳寒の中、廊下に次々と死体が山積みとなるような場所だったという。
 
このNHKの前編と後編の番組の中で、高齢となった証言者達は、今言わなければ風化してしまう悲痛な思いや当時の思い出を、それぞれに次のように語った。
 
齋藤治さん:抑留当時17才。女学校卒業後、すぐ陸軍看護婦として働いていた。2年ハバロフスクに抑留。ソ連軍が侵攻してすぐ、仲間と引き裂かれ、すぐ「移動だ!」と言われた。いつ殺されるか、何をされるかわからなかった。毎日毎日が死と紙一重で、恐怖の連続だった。
「日本に返す」と言われていたのに、ハバロフスクに着いたら、そこは地獄だった。特に、一軒家でシャワーを浴びるために極寒の外で仲間全員が裸にされた時には殺されるかと思った。言うことを聞かないとソ連兵士に機関銃を背中につきつけられた。日本人の収容者の病院で看護を
していた時、夜になると、病人達が「お母さん!」と呼んでは、やがて死んでいく事が毎晩続いた。15才ぐらいの二人の少年が、堪えられず、脱走した時にはすぐに射殺され、その凍った死体がみせしめのため、皆が通らなければならないトイレへの道のまん中におかれていた。この少年達は、満蒙開拓青少年義勇軍として、満州開拓と警固を担う為に国策によって満州に送られていた10代半ばの少年達だった。この少年達には伐採、石切りなど特に大変な重労働が課され、わずかな食べ物しか与えられない中で、急速に疲労困憊して行っていた。

高場経子さん:10才の時に家族と一緒に満州に開拓団として入り、14才で従軍看護婦となり、初年兵と同じ訓練を受けた。収容所では、四隅にやぐらを組まれ、その上でロシア兵が銃を持って番をしていた。回りには四重ぐらいに有刺鉄線がはりめぐらされていた。女性も男性に混じって、
毎日の労働に駆り出されていた。

寺崎信子さん:行く先は日本人収容者の為の看護病院で、男ばかり1400人のところに連れていかれた。日本の軍の方に「みなさんをこんな風にしてしまって、申し訳なかった。」と言われた。

松本フミさん:8月9日、不可侵条約を破ってソ連が満州に侵攻してきた時、ダブダブの軍服を着て、丸坊主にして、男として逃げる準備をした。
ソ連兵に捕まった後は、「ダモイだ」と言われて、20人がひとつのグループにされ恐怖に陥ったが、大きい日本人だけの病院についた。チョロプオーゼロ収容所病院だった。そこで、看護婦として働いた。

太田秀子さん:抑留当時15才だった。氷点下30度の寒さの中を手袋もせずに働かされた。雪が降っても、外へ薪を拾いに行った。銃を持って、ソ連の監視兵もついて来た。大豆だけのようなわずかな食料で過酷な労働を強いられ、みな次々と栄養失調でなくなっていったので、自分も生きて帰れるかどうかわからなかった。亡くなった人達の死体が雪の中に積み上げられていくのを見て、いたたまれなかった。いよいよの時には恥ずかしめを受けないように青酸カリを飲んで、命を断つ覚悟ができていた。「日本の女らしく堂々と死になさい。逆らっても無理だから」と婦長さんに言われていた。だが、現地の人との交流が生まれたこともあった。(いっしょに歌ったロシア語の「カチューシャの歌」をまだ覚えている。)また、汽車でハバロフスクへ行った時、「日本のお嬢さん、ここへおすわり」と親切に言ってくれたロシア人もいた。

佐々木一子さん:満州の役所でタイピストをしていたが、看護婦が足りなくて軍に招へいされた。ロシア軍が侵攻して来た時、軍と共に行動する事を決めたが、父が家族と一緒に行くように迎えに来た。父とは共に行かず、抑留へ。その父は、自分に会いに来た事が原因で汽車に乗り遅れ、帰らぬ人となった。ロシア人は人なつっこくてやさしい人もいた。よく「恋人がいるか」と聞かれた。

井上ともえさん:フィリピンで戦死した兄を思って、自ら志願して看護兵となった。ソ連が侵攻して来た時、病院に入院していた傷病兵達を共に連れて逃げる事はできなかった為、静脈注射をうつ係となった事はつらい思い出。その後病院に火が放たれた。

寺崎のぶ子さん:ソ連侵攻後、満蒙開拓団の人達が現地住民から襲撃を受けてぞくぞくと大変な格好で逃げて来た。子供が一緒に逃げられない事から、自ら子供を手にかけ、自分も自殺した母親達もいて、悲惨な光景だった。

高亀カツエさん:従軍看護婦の経験もあり、従軍看護婦養成の班長だったので、捕虜とされてからずっと班の中の女性達を思いやって行動していた。
女性達が自分の身に危害が及ぶような時には、自決できるようにと軍から100人分の青酸カリを渡された。 しかし、女性の一人がロシアの兵隊に強制的に連れ去られる事件があり、その時、「班長、助けて!」という声を聞いた。その声は今でも耳から消えない。80歳を過ぎてから、
四国のお遍路さんに行き、その哀しい経験の答えを探した。 もう一つの辛い思い出は、ソ連侵攻後に150人の女性達が部隊といっしょに逃げていた時、女性達が軍の行動の負担となっていった。それで、看護婦はもう用が終わったので解散するように、と言われて必死に反対した。本当に命が危険な状態の中で女性が一人になって逃げ切れる事は考えられなかった。この解散命令は、実行はされなかった。このような経験は、人として、女性として極限状態のものであった。それでも、命を惜しんではいけない、大変な仕事も、始めたら終わるまでやらなければならない、と思って働き続けた。

これらの女性達は国の求めに応じて看護婦としての誇りと使命感を持って軍の為に働いていたが、シベリア抑留という思いがけない悲惨な経験が待っていた。以下、ここに記載する読売新聞の記事は、上記高亀カツエさんの経験を更に詳しく述べている。