祖父、北川剛さん(1921-1985)は島根県生まれの音楽家。北朝鮮で敗戦を迎えた。ソ連軍による武装解除の後、米一升と岩塩を与えられただけで40日間の行く先のわからない強行軍を強いられて、抑留への苦難が始まった。臨時収容所や輸送船での旅の末、その年の暮れ、極東、ティチュヘプリスタニ港に上陸。シホテ•アリニ山脈の中にある新しい収容所で六年間の捕虜生活が待っていた。
厳寒の中、直径2mもある大きな赤松を長さ2mの鋸一枚を使って二人一組で切り倒す伐採作業の強制労働に携わった。これはとても危険な作業で、倒れてくる赤松の下敷きになって命を落とした人もあったし、その日のノルマを果たさなければ僅かな食事の量も減らされる過酷な仕事だった。吹雪の中でも仕事は続いた。その後北川さんは40日の移動のための行進中に飲んだ田の水で黴菌に侵され、危篤状態になって、長い間病床にあった。
しかし、どん底の収容所生活の中で、一つの光が射した。作業場に出かけるロシア人の農夫達が毎朝コルホーズの農場に向かう時に素朴に共に歌う歌声の力強さと心に響くメロディーを毎日耳にしたのだ。歌うことを学んできた人生の中で、その瞬間、魂が根本から揺さぶられ、震えた。ここに人生の方向を決める音楽との出会いがあった。このようにロシア音楽に魅せられてから、少しづつロシア語でロシア民謡を少しずつ歌うようになった。ある日、捕虜収容所の責任者のためにロシア語の歌を披露すると、「沿海州楽劇団」という日本兵のためのアンサンブル組織に入るように勧められた。そして楽団が演奏する時に、独唱や合唱、小演劇、詩の朗読、曲目解説などを担当して喜ばれ、沿海州に点在する収容所を巡回した。そして、のちにロシア人の工場や作業場にも呼ばれた。東京交響楽団(NHK交響楽団の前身)のバイオリニスト黒柳守綱氏も捕虜として、同じアンサンブルで演奏していた。