「岸壁の母(がんぺきのはは)」は、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。そのひとりである端野いせに取材した流行歌の楽曲、映画作品のタイトルともなった。ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、
これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になった。
作詞した藤田まさとは、上記の端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聞いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。歌手には専属の菊池章子が 選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらな かった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。
昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」 の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプ レーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーヤーを購入し、端野に寄贈した。
この歌は、昭和47 年(1972 年)にはキングレコードから二葉百合子が浪曲調で吹き込んだ。LP レコード、シングル、テープを合わせて(250 万枚)の大ヒットとなり、昭和51 年(1976 年)には中村玉緒主演で映画化された。さらに、昭和52 年(1977 年)に市原悦子主演でドラマ化(「岸壁の母」)された。今も二葉百合子の十八番として息長く歌い継がれている。2013 年、人気歌手坂本冬美は、新発売のレコードの中の一曲として、師匠、双葉百合子のこの歌を録音、発表した。