再びエラブガの地へ

平成7年、ハバロフスクに抑留者の慰霊碑が建設され、9月12日、その除幕式が行なわれるというので、全抑協の会長として参加した。財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会の手により、国からの補助によって建てられたもので、民間の資金協力でそれに付設した公園が造られていた。

敷地はハバロフスク州の提供によるものだが、その位置は故東家衆議院議員が前年現地に赴き、当局側と折衝して決めたものである。彼が行くまでに当局が予定していた場所は低湿地で眺望の悪いところであったというが、ねばり強く交渉して高台の今の位置に変更させたという報告を聞いていた。

ハバロフスクに行くのなら、機会があれば訪ねたいと考えていたエラブガに行けるかなと思っていたら、その頃にモスコウで日ソ間のシンポジュウムを開催しようという話がもち上がってきた。

平成6年にもモスコウでシンポジュウムが開かれ、全抑協の青木理事長が参加していた。ロシア側と抑留者の問題について討議を行うことが目的であったが、まず、抑留者が捕虜かどうかという点をめぐって激しい議論が行われたままになっていた。

そのシンポジュウムでは、この問題も含めた争点にケリをつけることはできないと思っていたが、せっかくの機会なので出席をすることにした。

モスコウでのシンポジュウムとハバロフスクの慰霊碑除幕式との間に数日時間がとれることになったので、50年ぶりにエラブガを訪問することにした。懐かしいという気持ちはあまりなかったかもしれない。と同時に3年間の苦労をした収容所をこの目でもう一度しかと見てみたい、変わっているだろうか、どうだろうかなという気持ちもあって、行く決心をした。おそらく、もう二度と訪ねることはできないだろうな、ならば家内にも見てもらいたいと思ったので、誘うことにした。余り気も進まないようであったが、多少の興味もあったのだろうか、同行することになった。

それまでにも何回か、富樫、板垣氏などを中心とする墓参団に加わってエラブガに行こうと誘われたが、日程の調節がつかず、見送らざるをえなかった。抑留の体験は人に語りたくない気持ちも強い。全くいい思い出ではないからである。それだけに、エラブガに行きたいような、行きたくないような気持ちの間に揺れていたことも事実である。

しかし、抑留時代から約50年、今行かなければもうチャンスはこないかもしれないと思い、全抑協の幹部(エラブガにいた人達ではない)数人と家内と一緒にエラブガに行くことにしたのである。

案内は東洋学研究所のキリチェンコ氏であって、私たちの運動について熱心に協力してくれていた。それで、このたびの小旅行の一行は、青木理事長夫妻、鈴木理事、石崎通訳、キリチェンコ氏、われわれ夫婦の7人となった。

8月7日、モスコウを出発した飛行機はカザン空港に着いた。約2時間の飛行である。カザンの街には抑留の間に3回行ったことがある。最初は前に述べたように、監獄へ入れられた時。次は糧秣受領でカイダロフ軍曹といっしょに行った時、3回目はエラブガの門を閉めてシベリア鉄道に乗るまでの2ヶ月間、糧秣の貨車積みなどのラボータをした時である。