流刑地へ
1950年、七月に釈放された時のことを赤羽さんはこう書いている。
「思いがけない知らせに私は狂気した。足が地につかぬ思いとはこのことであったであろう。ラーゲルを出てどこへ行くのか、そんなことは考えもつかなかった。ここを出られる!自由になれる!それだけで頭が一杯で、血がフツフツと湧き立つようだった。」そして、鉄柵の外へ出て、青空の下の自由の空気を一杯に吸ったのだった。
移動にはまた家畜以下の扱いの囚人列車に乗らなければならなかったが、到着したモリンスクラーゲルは夜電灯もついており、少し贅沢な雰囲気さえあった。そして医師の診断を受けると仕事は免除してもらえたので、昼間は刺繍をし、夜は読書をしてのんびりと過ごせた。そこから前にも通ったことのあるカラバスという中継地に行った。亡くなった女性の田中さんには以前ここで出会った。そこの付属病院で二人の日本人将校を看取ったという看護婦さんに会った。その様子を語る彼女の頬には涙が流れていて、赤羽さんの心を打った。「女の田中さんだけでなく、たくさんの日本人捕虜の人々が、シベリアの広野で死んで行ったのであろう。異境で、淋しく死んだ人たちのことを思うと、私の胸はしめ付けられうるような思いがした。しかし、ソ連人のなかにも、あのように優しい女性がいたことを思うと、亡くなった人たちにも、身内の人にも、いくらか救われるような思いがするのであった。」
シベリアで迎える六度目の冬を前にして、旅はまた続いた。着ていたのは、みすぼらしい中国人の綿入れ労働服に手作りの毛布で作ったオーバー。破れかけた靴。そのままだったら足はすぐ凍傷にかかり、足指を失っていただろう。が思いがけないソ連人の好意で、全体がフェルトでできている長靴をようやく手に入れることができた。更に新しい綿入れ労働服ももらうことができた。しかし、囚人列車の中では虱退治にあけくれ、どこの中継地についても有難くない熱気消毒があった。それでも体のかゆみはとまらなかった。
移動中に赤羽さんは変わった列車を見た。列車には自由人ではないソ連人がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、鍋やフライパンの柄がはみ出した大袋がある。小さな子供や赤ん坊を抱えた母親。集団追放となり、家族全員が追い立てられた人々の哀れな列車であった。当時ソ連全土に存在した収容所へと送られる人々は、外国人のみならず、政治的理由から迫害を受けていたこのようなソ連人も少なくなかったのだ。1919年から1960年の42年間に渡って、こうして多くの罪のない人々が些細な理由で捉えられ、体制の為の強制労働を強いられた。赤羽さんを含めて日本人のシベリア抑留者全員は、そのようなソ連の体制の中に計画的に吸い込まれて、なす術もなく、過酷な運命を強いられたのだ。
移動中どうやってお金を守るか、とても苦心した。お金さえあれば、少しおいしいものが買えたので、刺繍などの労働で貯めたお金は、本当に貴重だった。それで労働服に大切に縫いこんでおいたお金が、一度は盗まれてしまった。
クラスノヤルスク市に着いて、そこにあったホテルが監獄となり、用便の匂いの漂う部屋の中で休む。その翌日、流刑の書類を渡された「赤羽文子を流刑に処する。ドルゴモスト地区で服務せよ。その地区から脱走を試みた時には、法によって処刑する。」
五年の刑期は終わったはずであったし、流刑の期間は明記されていなかった。身分証明書に相当する「流刑者証明書」が発行された。前より少しましだったのは流刑地に着くまでの間の列車はもう囚人列車ではなく、粗末であっても鉄柵や檻はなかったことである。座る場所や用便も自由で、赤羽さんは「天にも昇る心地だった」と書いている。流刑地の暮らしは寂しく孤独なので、周りの男の人たちはしきりと「妻選び」を始めていた。美しいユダヤ人の娘の心をつかもうとする三人の中年男。困った時には手を貸してくれる金歯の職人。必死に同国人を探す人々。こんな境遇の中で、赤羽さんはそこにいた一人一人を細かく観察し、温かな描写をしている。先の見えないシベリアでの抑留生活が続く暗闇の中でも、心を閉ざすことなく、常に周りの人々への思いやりを忘れず、「どんな不幸な境遇にあっても、人間の心にはユーモアも湧けば人情も薄れぬことを、私はこの旅を通して知った。」と書いている。
流刑地のドルゴモスト地区に着いた時、赤羽さんは一人の日本人のおばあさんに会った。六十五、六歳の靴屋の奥さんで、もう日本語はほとんど忘れてしまっていた。同じような流刑人となったのか、シベリア出兵時代にソ連に入ったのかはわからなかったが、小さな黒パンとお粥を少しもらい、懐かしく嬉しい気持ちで別れた。その町から八十五キロ離れたベイ村まで雪の中を歩き、そこが次の住処となった。仲間も少しいたし、もう護衛兵の姿はなく、「囚人」とは呼ばれなくなったのは幸いだった。
五年の刑期が終わり「釈放」されたと言っても、赤羽さんを待っていたのは、このような更なる「流刑」であり、その期間も定かではなかった。初めから公正な法律の存在しなかった中で驚くべき判決を受けて有無を言わさずの服役となり、更に、どこまで続くかわからないシベリアでの流刑者としての生活に直面することとなった赤羽さんは、そこにいるたった一人の日本人であった。日本語を話す相手もなく、厳しい気候と慣れない環境の中で次々と現れる新しい局面を、どんな思いで超えたのであろう。