ソ連兵の一人ひとりは概ね人がよさそうであった。みんな年も若く無邪気で、他愛のないような感じさえした。ちょっとした年輩のものは、もう今までの戦闘で体力を消耗し尽したのではないかと思われるほどであった。
装備といっても、兵器を除いては、ほとんど着のみ着のままで、わが日本軍の兵士のようにいろいろなものは持っていなかった。長い外套もお粗末なもので、ムシロみたいに荒い手ざわりの毛で織られていた。下着を換えているのを見たこともない。もっとも、彼等は一様にパンツを履いていなかった。
その代り、藁を混ぜたような真黒な固いパンを齧って水を飲んでいれば何日も平気といったような、いうなれば動物的な強さをもっていた。寒さにも馴れていて、シベリアの冬に重装備のわれわれには信じられないくらいの薄着であった。
収容所で知りあった軍貨物廠勤務の主計将校の話は、「奉天を離脱する時、倉庫に火をかけて集積した物資を焼いてきたが、山のようにあったスコッチ・ウィスキーは火が入ると、ボンボン火花のようにはねて壮観だった、あんなもったいないことをするくらいなら、早く飲んでしまっておけばよかった」と口惜しそうに言っていた。どうも日本陸軍は兵器弾薬よりも被服や物品などに重点を置いていたのではないかと思われるくらいなとこがあった。もっとも戦争で兵器、弾薬が一番先に消耗し尽したのかもしれないが。
そういえば、昭和20年に入ってからも、内地から続々として新しい兵隊が大陸に送られてきていた。いずれも真新しい服を着、真新しい戦闘帽を被り、ちゃんと革の靴を履いて、巻脚絆をつけてはいたが、肝心な兵器は、10人に一挺の小銃しか持っていない。その小銃も、よく見ればわれわれが中学校の軍事教練で使っていた古い三八式歩兵銃であった。小銃には菊の御紋章が刻んであるが、学校の軍事教練用に払い下げる時は、たがねでそれを潰していた。そういう銃をそのまま新兵に持たせているのであった。
内地の戦闘資材も限界にきているのだなと思わざるをえなかった。アルミニュウムもあげて飛行機の製造に向けられているのだろうか、兵隊につきものの飯盒も、徳川時代に旅人が道中に使っていたような竹や籐で作った破り籠であった。水筒は青竹の一節を切って作ったものを腰にブラ下げている。腰に帯びている牛蒡剣も中味は鉄でちゃんと刃もついていたが、外の鞘は黒く染めた竹を二つ合わせて針金を3、4ヶ所巻きつけてあるという、至ってお粗末なもので、これが近代戦を闘う軍隊かと思うと呆れるよりも情けなくて涙が零れるほどであった。
だから、この戦闘能力をもたない新兵たちは、敵機の空襲に対しても何の抵抗力もなく、爆音にいたずらに逃げ惑うばかりであった。逃げればまだましなほうであったが、逃げる訓練すら受けていないような有様で、敵機の姿を見てもただボンヤリ隊伍を組んだまま空を仰いでいるという始末であった。犠牲の大きいのは当然であった。
この連中を前線に送っても、一体どういう働きをしてくれるのか、想像に難しくない。何の役にもたたない、というより全く殺されるために送られる羊の群のように、可愛相に思えてならなかった。小銃などは、敵からぶんどったものを使えとでもいうのだろうか、死んだ戦友のものをあてにしているのだろうか。いずれにしても、。計画性のないことおびただしいものであった。
話を元で戻そう。
ソ連軍の組織でよく飲み込み難いところの一つは、軍をM・B・Dとの関係であった。M・B・Dは、もとはN・K・B・Dと言われたソ連政府の組織である。そして又、われわれは、抑留された当時は、至って無知であって、ソ連人はすべて共産党員ではないかと思っていた。ところが、それはとんでもない間違いであって、党員はごく少数であり、大体において優秀な人間がなっていた。それだけに威張ってもいるようであった。
M・B・Dは軍隊の中にあって、日本軍における憲兵のような役割も果しているらしく、兵隊に非行があったり、トラブルがあったりすると表に出てくるように思えた。
どこの軍隊でも、とくに前線にあっては異常な心理状態が支配するから、さまざまな非行が発生する。窃盗、強盗、強姦、殺人など、いくらもある。問題は、そういう事件が発生した時に、どういう措置がとられているかである。
日本軍は軍法会議という、一般の国民に対する司法制度とは別の、軍人の、あるいは軍に関連する刑事事件にだけ適用される独特の司法制度をもっていた。軍人である法務官が検察官となり、裁判官になって裁判が行なわれる仕組みであった。
ところが、ソ連軍を見ていると、何か悪いことをしたことが発覚すると、その兵隊をその場でM・B・Dの将校が射殺をするというような事態を何度か目撃をした。そういう権限が与えられているのかどうか、はっきりしたことはわからなかったが、いずれにしてもソ連軍の信賞必罰は厳しいものであり、その体制を支えているものが、M・B・Dの組織であることを如実に見た思いであった。このような、荒っぽいが、厳しい軍規が支配しているかぎり、ソ連の軍隊もあなどれないと感じたのである。
もっとも、激しい戦闘をしてきた連中が多いのか、彼等は、仲間うちの喧嘩に例のマンドリンで打ち合ったりすることがあった。打ち合いで兵隊が殺されたものも眼の前で見たが、双方のぶっ放す流れ弾がわれわれに当らないか、身の縮む思いがした。