浮かび寄る恐ろしい疑念

一体どういう目的なのかはよくわからないままに調査は継続した。私の所属していた軍司令部の中支における行動の実態に向けられていることは明らかになりつつあったが、それはどういう目的かは依然としてはっきりしていなかった。

極東軍事裁判が東京で開かれていることは「日本新聞」というソ連内でわれわれ向けに発行されている新聞で承知していたが、ひょっとしたらその裁判に関しての記録を集めるために日本軍の大陸における行動を調査しているのではないかと思った。

しかし、私は主として後方の仕事に当たっていたし、物資の調達についても強制的な徴発ではなく現地通貨(儲備銀行券)による任意の収買であったから何ら訴追に値するような事実はなかったはずである。

ミーシャの調査も2日置きが3日置き、4日置きにと段々と間遠になってきたし、徹夜で繰り返される調査に飽きてきたのか、あまり熱心でなくなってきた。ミーシャの恋人はどういう男か、いつも窓の下からの声しか聞いていなかったのでわからなかったが、調査の日の夜明けには決ったように声が聞こえてきて、ミーシャはその声が耳に入るやそわそわして落ち着きがなくなるのであった。

内務省と監獄の間は例によって護送車による往復であったから、外窺うわけにはゆかなかったが、何となく夏らしく明るい物音が車の中にも入ってくるであった。

独房の暮らしも幸い夏であったから寒さに悩まされることはなかったし、住めば都ということにはなるはずのものではなかったが、何となく馴れてきた。ただ取り調べで引き出される時以外は何もすることがないので苦痛であった。

独房に持ち込みを許されたのはソ連で発行された捕虜向けの「日本新聞」とドイツ語の「ノイエ・ツァイト」とロシア語の「ノーボエ・プレエミア」だけであったから、そのドイツ語とロシア語の新聞を繰り返し読むことがただ一つの仕事であった。字引がないからわからない単語も少なくなかったが、そこはそれ「読書百遍意義自ら通ず」という格言の通り、何べんも同じ文章を読んでいるうちに次第に意味がわかるようになってきたのは一つの発見であった。

その昔、菊池寛の『解体新書』という小説を読んだことを思い浮かべた。オランダ語の『タアフェル・アナトミア』という人体解剖の本を杉田玄白、前野良沢などの若い学者が寄り集まっては翻訳に知恵を絞り合う姿を生々と描き出した素晴らしい短編小説であったが、私もちょうどそういう苦労を味わいつつ時間を潰していたのである。

父母兄弟のこと、友人のこと、東京などの大都市ばかりか地方の小都市まで米軍の空襲で壊滅したといわれているが本当はどうなのだろうか、大陸や南方にいた部隊はどうなったのだろうか、ああ、寿司やソバが喰いたいな、天ぷらや鰻も喰いたいと、とめどのない思いが次から次へと湧いて出て、そしてまた繰り返し思うのであった。

食べ物は悪くないので少し太ったようである。しかし待てよ、よく言うではないか、死刑囚には刑の執行の前にうまい物を食べさせるではないか、今の給与もその前触れではないのか。考えすぎと思って打ち消してもすぐまた黒い沼の底から泡のように浮かび寄ってくる恐ろしい疑念であった。

カザンの監獄から解放されたのは8月の末頃であった。何べんも同じことを聞いても、同じ返事しか返ってこないし、もうこれ以上調べても何も出てこないとソ連側も思ったのかもしれない。

カザンの波止場から白い外輪船に乗せられてボルガ河を遡上することになって、やっとこれでラーゲルの皆と一緒になれると思った。

ボルガ河の氷は溶けて、両岸には緑の林、恐らく天然林がどこまでも続いていた。

船内は、短い夏を精一杯楽しもうと思うのか、若い人達が賑やかに騒いでいたが、多くの人達は押し黙って、床に転がって寝てエンジンの響きを耳にしていたようであった。

ソ連の兵隊も年とった者は、一様に革命前はよかったと小さい声でつぶやくのだった。壁に耳あり、何か体制批判をしているのが知られたら最後、何をされるかわからないという恐怖心を絶えずもっているようであった。

彼等が革命前もそんないい暮らしをしていたとは思えないが、矢張り物を言う自由はもっていたのだろうし、また、それが何よりも、少々物が以前より余計に手に入るようになったとしても、それとは代え難いものがあると気づいているのではないか。それに、革命前より暮らしがよくなったとも思えないとあっては、余計文句を言ってみたくなるのだろうと思う。

船はボルガ河の本流から支流のカマ河に入って行く。エラブガの粗末な港、といっても船の着く岸壁があるだけのものであったが、その懐かしい港に着いた時は、これから再び収容所に入るという気持ちよりも、半年以上別れていた戦友達に会える喜びのほうが遙かに大きかった。これで仲間の中へ戻れる、という気強さを覚えた。皆がよく帰ってきたと歓迎してくれたのは言うまでもなかった。