継続する日ロシンポジウム

私達「全抑協」とソ連、現在のロシアの親善協会との間で毎年のように日ソ、現在は日ロシンポジュウムを繰り返し開いている。私は「全抑協」の会長としてロシア当局(外務省、軍事省、内務省、軍事中央公文書館など)の担当官と、主として抑留者に関する日ソ協定(平成4年、ゴルバチョフ訪日時に締結)の履行促進などについてロシア側に要請することを兼ねて、このシンポジュウムに出席している。

ロシア側は親善協会の会長で元KGBの出身のキリチェンコ氏が世話人となっている。

そのシンポジュウムにおけるロシア側の参加者は主としてキリチェンコ氏の友人であるが、学者が多い。そのシンポジュウムは抑留問題について両国側の争点を明らかにし、討議を重ねることによって相互の理解を深めることに狙いがあったと思うが、過去何回かの議論は、われわれ日本人の身分をめぐってのものであった。

日本側は一貫してわれわれは抑留者であって捕虜ではないと主張していたが、ロシア側はキリチェンコ氏の他、少数の人はこの意見に同調しても、多くの人は捕虜であることを主張して止まなかったし、もし抑留者ということに固執するなら、ハーグ陸戦法規上の俘虜としての権利を受けられないということまで言い張っていた。ソ連は大正元年にハーグ陸戦法規に、昭和28年にジュネーブ条約に調印している。

私はある時、モスコウにおけるシンポジュウムで、つい堪り兼ねて「われわれは天皇が戦争を止めると言われたから戦闘行為を中止し、協定どおり武器弾薬の一切を引き渡したのであるが、もし、そうでなかったら、最後の一兵になるまで銃をとって貴方方と戦ったはずである」と睨みつけるような顔つきで大きな声を張り上げたことがあった。

昭和20年8月15日が終戦の日である。かつて戦後はもう終ったという言葉が流行したが、われわれにとって戦後はまだ終っていないのである。

シンポジウムは、だいたい9月初旬に開くことにしている。8月は夏季バカンスで担当官もモスコウを離れることが多いし、9月も中頃を過ぎると寒くなって、年によっては雪が降ることもあるので、9月初旬が大体よいタイミングと考えられるからである。

日ロのシンポジウムも回を重ねてきて、今年は20回にもなった。当初はロシア側(ソ連解体前はソ連側)からの参加人員も少なかったが、回を重ねるごとに増え、20人を越えることもあったし、懇親会では出席者が50人になることもあった。

民間ベースで抑留問題を議論することは、日ロ相互の理解を深めるうえでも効果があったとは思うが、ロシア側の出席者は東洋学研究所の所員を中心とした学者が多く、議論倒れになるようなことが少なくなかった。

ことに日本側が「抑留者」と称しているにもかかわらず、ロシア側は終始「捕虜」(戦時俘虜)だと決めつける人が多く、いくら議論をしても噛み合わないばかりか、このようなことを果てしなく議論する意味は余りないと思うようになった。

とすると、議論は、われわれがロシア政府に要望している未提出の名簿の提出、墓地の維持管理などという、主としてロシア官庁側と交渉を要するような話題が多くなり、ロシアの学者諸先生方と話し合う問題が乏しくなったこともあって、ここ数年は、シンポジウムのロシア側の参加者を思い切って減らすことにした。

昨年はキリチェンコ氏をはじめとして七名、懇親会も引続きそのメンバーと開くことにした。最も、日ロシンポジウムは、モスコウばかりではなく、日本で中央慰霊祭を実施する際も開くことにしている。つまり、年2回、モスコウと東京で行うことが、定例となってきている。ソ連抑留者、恩給欠格者、外地引揚げ者のいわゆる戦後処理問題関係の3団体のために設立された平和記念基金も法律で平成22年には幕を閉じられることになっている。先に記したように遣された問題はまだいくつもある。われわれは乏しい余命をもって、その解決のために最後の努力を試みなければならないと思っている。