監獄の苦痛と恐怖

私はジェレノドリスクの病院からカザンに送られ、帝政時代からの監獄に入れられ、独房生活を送ることになった。どういうわけか、ドイツ人から中傷されて官名詐称などと疑いをかけられたからだが、そのため、中支にあった私達の軍司令部の行動を根堀り葉堀り調べられることになった。

ジェレノドリスクを離れた時はたった一人で、コンボイの軍曹に拳銃片手に追われるようにカザンの町の監獄に入れられた。カザンはタタアル自治共和国の首都で、レーニンが若い頃に学んだという古いカザン大学のある町であった。

この監獄でのことは、先に出版した『タタアルの森』のなかの「堀のある窓」の記述がほぼ事実であるから、ここには重ねて書かないことにする。

しかし、生まれて初めての監獄の生活であったし、その精神的な苦痛は思い出すのも不愉快きまわりないものであって、二度と味わいたくない思い出である。

日本の刑務所の経験はないので、比較することは難しいと思うが、少なくとも言葉が看守によく通じない点だけでも、そして捕虜として何をされるかわからないというところだけでもカザンの監獄は私には大きな苦痛であった。

苦痛というより、いつ銃殺されるかわからないという思いや、どんな酷い拷問を受けるのかと思い悩むだけでも、気が狂うのではないかという追い詰められた精神状態であった。いっそ気が狂ったほうがましではないかとも思った。

怖れていた肉体的な拷問は受けなかったが、真夜中に監獄から連れ出して、目隠しの囚人護送車に乗せ、夜通し訊問を繰り返すのは明らかに拷問の一種である。寝かさないで、精神状態をおかしくして、何かを聞き出そうという作戦であるに違いない。

それに、これだけは絶対に許せないと思ったことがある。それは1日わずか15分間ぐらいの散歩の時間があったが、ある日、コンボイがいきなりそこに立てと言って、ちょうど眼の高さに弾痕が抉れている煉瓦壁の前に私を立たせ、矢庭に例のマンドリンを抱えて、銃口を私の顔に向けたのである。それ、銃殺かと思うと一瞬私は心臓がぐるぐると回るような痛みを感じた。心臓がでんぐり返るという表現を聞いたことがあるが、あれは正に本当だと思った。

それは冗談で、コンボイはニヤリと笑ってすぐマンドリンを下したが、私にとっては大変な恐怖を味わされたのである。この一事だけでも、ソ連を絶対に許せないと思った。

それはそれとして、ロシア語を覚えなければならないなと切実に思い始めたのはその監獄生活であった。カザンの監獄は、結局取り調べのために入れられていたのであるが、取り調べは決まって夜、場所は共和国の内務省であった。取り調べは初めは日本語の下手な通訳付きで副大臣、途中からは20歳すぎのかなり綺麗な女性の通訳、それも英語の通訳一人となってしまった。

今でも夜っぴいて公園の木立を通して鳴っていたアコーディオンの音が耳に残っている。北国の夏は本当に短く、若者達は一刻を惜しんで寝ずに青春を楽しんでいるように思われた。

あんな自由に恵まれていない国でも、恋愛する自由だけは残されているような若者達の明るい交際を垣間見て、捕らわれの身にはただただ羨ましく思えた。