護送車に向かう時、防寒靴でボクボクと凸凹の道路を歩く私は、自由を奪われた身の不運を改めてしみじみと感じた。護送車は再び私を元の監獄に連れ戻して、看守は私を部屋に入れると鍵をかけた。独房の生活がまた始まるのであった。取り調べは1日置いて又行なわれた。取り調べは副大臣ではなくて、少佐の肩章を付けた別の若い将校に替わった。背が高く、姿勢のいい、いかにも共産党員らしい顔付きの男であった。
ソ連に初めて連れてこられた時は、ソ連の人間は皆共産党員かと思っていたが、それはとんでもない認識不足であって、党員は全体で600万人ぐらいしかいないということを知らされた。党員になることはなかなか難しく、3人以上の党員の推薦があったうえで、試験に合格しなければならず、その試験が容易にパスできないという話であった。
試験は共産党史についての筆記試験だそうで、党員の試験を受ける者はいつも共産党小史を小脇にかかえていた。これ見よがしのところがあるのは、党員の試験を受けるということだけでも一寸した名誉と考えられているかもしれなかった。
話は少し横に滑ってしまったが、このいかにも党員らしい少佐には20歳をちょっと出たぐらいの若い通訳がついていた。空色に近いブルーの瞳をしたなかなかの美人で、唇の形がとくに美しかった。少佐は彼女を「ミーシャ」と呼んでいたから、ここではミーシャとしておこう。
ミーシャは英語の通訳であった。二日前に私が取り調べを受け、外国語の能力を尋ねられた時に、英語を少々と答えておいたせいかと思われた。いかにもまずい日本語の通訳は落第になったのかもしれなかった。
少佐の調査も二日前の副大臣の調査と同じように人定訊問から入って、全く型通りの質問が次々と続いて飛んでくるのであった。これがソ連流の取り調べのやり方であって、何べんも同じことを尋ねられると、つい嘘がバレる可能性があった。というのは、自分が本当に体験していたことはなかなか忘れるものではないと同時に、体験していないことはつい思い違いをしがちであるからであった。まして、自分の発言を記憶しておくための手段は何ももっていない。
少佐の尋問が始まったのも夜の11 時過ぎで、部屋の中の掛時計の針が時間を示していた。ミーシャの英語はかなりのものであったし、こういう仕事に馴れているせいか軍隊用語もよく知っていたので、二日前の日本語の通訳と違って、私が英語でつっかえることさえなければ、スラスラと進んだに違いなかった。この日も同じように2時、3時と訊問は続いて、解放されたのは4時過ぎであった。外は相変わらず若い男女の楽しそうな歌声で、いよいよ虜囚の身の情けなさを身にしみて感じなければならなかった。
それにしても、ミーシャという若い美人の通訳が相手だということは救われたような気がした。形のよい唇の動きを見つめていると、つい身分を忘れるような思いがするのであった。ミーシャは赤い花の模様のブラウスに短い紺のスカート、生地は余り上等のようには見えなかったが、そのスカートの下には綺麗な脚がスラリと伸びていた。ハイヒールではなくて踵の低い靴を履いていたが、その形も美しかった。
少佐の尋問も主として中支における部隊及び私の行動に関するものであったから、二日前の答えを繰り返していればよかったものの、私の答えは彼の疑念を晴らすことにはならなかった。
ミーシャは何となく好意的な態度を示してくれていたが、私が答えに閊えていると、時に疑わしそうに瞬きをするのはやはり職業柄であったろうか。彼女もそれなりに訓練を受けているような気がした。朝の4時頃になると前と同様に一応訊問は終わって、また同じように護送車に乗せられて独房に送り込まれる。
それから毎日になったり、1日置きになったりして調査は続けられた。別に新しいことは何もないのによくも飽きもせずに、と思った。ソ連という国の鈍重さが馬鹿らしくもあったが、時に不気味にも思えた。
調査を担当していた少佐は他に用事ができたのか、いささか面倒臭くなってきたのかわからないが、途中からミーシャだけの調査に切り替わってしまった。こうなると、こっちも気が楽になってくる。美しいミーシャの顔を眺めながらの尋問回答作業はそれほど苦痛ではなくなってきたから妙である。
ミーシャに恋人がいることに気がついたのは何回目の調査の時であったろうか。その日も取り調べは朝の3時頃まで続いていたが、夏の夜明けのほのぼのとした薄明かりがヴェールを落としたようにみるみるうちに明けていく頃、公園に面した窓の外で「ミーシャ」と呼ぶ声がする。姿は見えないがいかにも若そうな張りのある男の声であった。
ミーシャはハッとして、それでもすぐ窓のところに駆け寄ってガラス窓を押し開けるといかにも嬉しそうな会話を、それも早口で始めた。今仕事をしているからと返事したようであるが、それでも彼の声が消えるや否や急に取り調べは急テンポになって、顔は明かりが灯ったように美しく輝いていた。
30分余りでそそくさと調査を打ち切ると、せわしそうにハンドバッグを抱えて部屋を出て行くミーシャの姿はもう公務員のそれではなく、いかにも若いロシア娘らしく初々しささえ感じられた。