満蒙開拓義勇隊の悲劇

それにしても、満蒙開拓義勇隊の隊員たちは気の毒であった。20歳にもならない若い人達が、狭い日本を後にして広い満州の地で五族協和、王道楽土の建設を目指し、開拓に従事すべく旅立っていったはずである。しかし、夢多きはずの地で見たものは、酷寒の不毛の荒地ではなかったか。内原の日輪兵舎で訓練を受けて続々と満蒙に渡った義勇隊の人々は誠に不充分な機械力で辛い開墾の仕事に取り組んでいたと聞いている。

私は学生の時も、また、陸軍へ入営してからも、短い期間ではあるが、内原で訓練を受けたことがある。私どものそれは、まったく真似ごとみたいなものであったが、それでも昔ながらの鋤鍬を振っての土地の開墾には大いに疑問をもち、それについて指導者に質問をしてみた。農業に取り組む精神は鋤鍬を使うところから鍛えられるのだという答えがはね返ってきたが、私は不満であった。まだ行ったことはないが、内地とはくらべものにならない広い満蒙の土地なら、当然ブルドーザーやコンバインなどの大型農業機械を入れて耕作しなければならないのに、何故こんな原始的な耕作方法で訓練をするのか。

加藤完治所長の精神主義はわからないでもないが、どうも時代錯誤ではないか、と思っていた。当時、加藤完治はいわば神様みたいな存在であったし、誰も公然とそのような意見を述べる人はいなかったが、腹のなかでは疑問を持っていたのではなかろうか。ちなみに、加藤所長は私の叔母二宮治子の姻戚であった。

話は少し外れたが、満蒙開拓義勇隊の若い人達は、満蒙の国境に近く、ソ連兵が不法に侵入してきた時には抵抗しただろうか。およそ最初から武器らしい武器をもっていなかったようであるから、おそらく一たまりもなく戦車や銃砲弾の犠牲になったのではないかと思う。あたら青春を散らし、まことに気の毒なことであった。

満蒙開拓義勇隊の隊員達以外でも、一家の主柱を召集で失った家族も少なくなく、押し寄せるソ連兵の凶暴な行動に対して抵抗する術もなく、女性は髪を切り、男装をして子供の手を引いて、わずかに動く鉄道などを頼りにして南下したが、途中で力尽きて倒れ、また、足手まといになる子供達を心ならずも満人の手に預け、着のみ着のままの状態で逃げ出さざるをえなかった。

それも叶わず、ソ連兵の手にかかるよりはと集団自決した人達のことも多く聞かされた。なかにし礼の『赤い月』などいくつも記録文学が残されているが、真実を知れば知るほど涙を禁じえない。これが戦争であり、これが敗戦である、というまことに厳粛な事実を嫌という程思い知らされざるをえなかった。

私はその現場にいたわけではなく、やたらに想像を逞しくして文字を綴ることは本意ではないから、この程度で留めておくが、後世の人々のためにも人々の記憶が喪われないうちに、その当時の在満邦人の実態は、もっともっと詳しく書き遺されるべきであると思うが、さて、誰がどうして責任を持って果たしうるであろうか。