考察

帰国後の文子さんが坂間氏と再会し、新しい家庭生活の始まりに至ったとは、何と思いがけない幸せが待っていたことだろう。しかも坂間さんの娘さんの雅子さんをはじめ良い人たちに囲まれ、文子さんのシベリアでの辛い過去は、徐々に癒されて行った。シベリア抑留体験の歴史の中では何の選択もないままに不運の死を迎えた方達も多い。そんな様々な人間の物語の中で、女性一人十年の間シベリアを彷徨った文子さんが人生の終わりには幸せに包まれたのは、天からの大きな贈り物だったのではないだろうか。

論理的で真面目一徹。努力家、責任感に溢れ、他人に対して寛容で謙遜。そして体の限界にあってもどんな苦難をも切り抜ける意志を貫き、知恵を絞り続けた文子さん。シベリアでの異文化や外国人、状況観察の能力は人一倍優れていた。帰国後の生活では、周りの状況に速やかに従う日本のやりかたには相容れないこともあったかもしれない。しかし、そうでなければ度重なる難局を一人で超えることはできなかっただろう。それに、何よりも自分と同じ境遇にいた周りの人に対する暖かな思いやりを忘れず、人にも自分にも希望を与えようとした心の広さには目を見張る。また、文子さんは言語能力の優れた人だった。自分の気持ちをきちんと言葉で把握し、それをしっかりと文章にする才能にも溢れていた。こんなに勇敢で力強い日本女性がいたことを、私は誇らしく、嬉しく思う。

赤羽さんが雪落としの重労働を成し遂げて神への感謝に満ちた時、私の眼はこみあげてくる涙で一杯になった。身に覚えのない罪で自由を奪われ、家族とも日本人からも離され、たった一人外国人たちの中で、しかも厳寒の考えられない最悪の環境で先も見えないまま命からがら生きて来た小さな女性の、一体どこから、このような感謝が沸き起こったのだろう。華奢で病弱の体には耐えられないような労働を課されたのに、それに対する憤慨などは微塵も見せない。そして、ただただどのようにその試練を乗り越えられるかと、そのことだけに集中した純粋で勤勉な精神の美しさを私は感じた。「赤間さん、ノルマが達成できて、本当によかったですね。」と言いたかった。人には色々な側面があるが、苦境に立たされた時にこそ、人間の本質が試される。そこに気高い精神を見た時の感動は心を揺さぶる。シベリア抑留の苦渋の記録の中から、このような光を見つけたことは実に宝物に出逢ったようであった。

私はと言えば、赤羽文子さんが苦難を超えてシベリアより帰国した1955年の4年前に、空襲に遭うこともなく、平穏な時代を迎えた日本に生まれた。それから戦後の猛烈な再生の努力を経た日本は、太平の世の中を迎えたかのように見える。遠くアメリカから見る祖国は一見安定を保ってはいても、世界の空気は流動的で、不安に包まれている。日々を穏やかに過ごすことのできる人々とは裏腹に、銃火に怯え、住む家のない人々もいる地球。満州で両親と何不自由のない幸せな10代を送っていた赤羽文子さんは、その頃自分の人生の顛末を知るはずもなかった。私たちが享受している「今」とは与えられている偶然であって、その先は実は何も見えない。極限状況の中で人間としての能力を研ぎ澄まして生き続け、未来を開くことのできた一日本人女性の驚くべき足跡を、忘れないでいたい。

 

文:榊原晴子

写真提供:坂間雅

参考文献:

  • 赤羽文子(1955)シベリヤ女囚の手記-ダスビダーニヤ(さようなら)』 東京 自由アジア社 
  • 坂間文子(1975雪原に一人囚われて シベリア抑留10年の記録-』 東京 講談社 
  • 坂間文子(2016) 雪原に一人囚われて シベリア抑留10年の記録-』 東京 復刊ドットコム 
  • 坂間文子1997)『生きながらえて夢』  東京 日本図書刊行会