軍司令部の混乱

終戦の詔勅のあった翌16日の朝、軍司令部の将校を一同に集めた櫛淵軍司令官に代り、鍋木参謀長は、朝鮮に父母、兄弟姉妹、親戚、友人のあるものには永久休暇を与えるからそこにいっていい旨を訓示し、軍警報の敵前逃亡積みを適用しない旨を明らかにした。

われわれは、早速集まって相談した。話合えば手づるはあるものであって、誰か忘れたが京城に知人がいる者がいた。「ヨシそれでいこう」ということで、経理部の連中は、皆その人を親戚ということにして離隊の届けを出した。といって、動くには用意がいる。そこは、お手のものの経理部である。いくらも走っていない新しいトラック1台に、米、味噌、醤油などの食料はもとより、燃料のガソリンもかつては虎の子のように大事にしていたが、今やソ連軍に渡すこともないと、ドラム缶2本を積み込んだ。

参謀長の話のあった晩のことであった。翌朝は出発する予定で、どのルートを走ってどこへ出るか、仲間と地図を広げ、議論をしながら酒を飲んでいた。

翌朝、食事をすませ、いよいよ出発という間際に、再度命令が伝達されて、前日の参謀長の訓示は取り消すという。計画は挫折して、われわれは咸興に留ることになった。機を見るに敏な、2、3の将校、下士官は、前日の夜、訓示が取り消されるまでに、早くも夜闇に乗じて姿を消していた。「あいつらは、うまいことをやったな」とわれわれは一様に口惜しがった。そのわずか半日たらずの時間差で、われわれがソ連の雪深い流刑地に送られることになったのだから、運命の分かれ道は予知し難いものである。

もっとも、なぜ訓示を取り消したのかは今でもよくわからない。当時口さがない連中の話では、一度は中央の指示によって永久休暇の許可を与えたものの、軍司令官と参謀長を除いて誰もいなくなってしまうような届出状況を見て、ソ連軍が進駐して来た時のことを考え、怖くなって取り消したのではないかという。それが真相ではなかったろうか。

第34軍の司令部は咸興にあったが、司令部の各部は一カ所の建物には入りきれず、経理部は小学校に入っていた。朝鮮の放送局は終戦直後から、金日成の呼びかけを流し始め、町は騒然となりつつあった。