民主化と代議員会

私は、所属していた第34軍司令部経理部の高級主計岩上勇二中佐の後を受けた近藤主計少佐がソ連側に逮捕され、他の収容所に送られた後を受けて給与主任になった。

収容所に拘束され、さらに逮捕されるというのも妙な表現ではあるが、手錠をはめられるような状態でどことも知らずに暮夜密かに連れ出されて、その後の所在は不明となり消息を絶ったのであった。現在に至るまで、彼のことについては何ら知るところもない。一説によると処刑されたということであるが、真偽のほどは詳らかではない。

なぜ、近藤少佐がソ連側に逮捕されたのか。真相は必ずしも明らかではないが、考えられるところは次の通である。

収容された年の翌年、つまり昭和21年の頃は、ドイツ軍の捕虜将校達がラーゲルの各職場の実権を握っていた。そのうち、特に給与関係はソ連側の担当者と癒着しているという噂がもっぱらであった。つまり、受領した糧食をピンハネして、それをソ連側に横流しをして金に替え、山分けしていたということであった。

無論、実態はわからなかったが、そうだと信じさせるような食事の質、量であった。ソ連側の作った食糧の捕虜(彼等はドイツ人も日本人も一緒に捕虜として扱っていた)一人当たりのノルマは下記のとおり(原文:左記のとおり)決められており、その通りに支給されれば、計算上のカロリー数も3000を越していて、けっして低くはない。もちろん、労働の種類にもよるから、平均しての話であるが。

配給基本定量(1日量)

米 100 グラム 雑穀 300 グラム 黒パン 300 グラム 肉 75 グラム 

魚 80 グラム  野菜 600 グラム バター 20 グラム 砂糖 30 グラム

塩 30 グラム 味噌 3 グラム 茶 3 グラム 油 5 グラム 煙草 15 グラム

ところが、ノルマ通りよこしているかどうか怪しいうえに、一番いけなかったのは、炊事の実権はドイツ人が握っていて、日本側は炊事夫にすぎなかったから、裏で糧食が落ち澪れているだろうということはわかっていても、事実を確認する由もなかったことであった。

夏になって労働はきつくなる。食べ物は全然足らない。みるみるうちに痩せてくる。このままいくとどういうことになるか、日増しに不安が募ってくるという状況のもとに代議員会が開かれた。代議員会は、ラーゲル内の日本側の議会のようなもので、各中隊から一人ずつ選ばれた代議員で構成され、連隊本部が管理者側として代議員の質疑に答えるというかたちになっていた。ラーゲルの民主化の一環として設けられたものである。

ある日、この代議員会で 3 項目の決議が行われようとした。3 項目とは、「曰く、8 時間労働制の確立」、「曰く、糧食ノルマの厳守」、「曰く、管理側ドイツ人の追放」であった。この項目が認められなければ、ストライキに入ることを代議員会で決議し、ソ連側に突きつけようとした日の晩に話がソ連側に漏れて、翌日、代議員会は即時解散、責任者は処罰ということになった。

近藤主計少佐はこのいわば、クーデターの責任者ということで即時逮捕され、顔まで布でぐるぐる巻きにされて連行されたのである。いうなれば犠牲者であった。その近藤少佐の後を受けて私が給与主任になったのであるが、私を推薦したのが多分、近藤少佐の後を受けて私が給与主任になったのであるが、私を推薦したのは多分、近藤少佐の前の給与主任であった岩上中佐ではなかったかと思う。

私は、給与主任になる時、ソ連側との間に起こるべき摩擦を思わないでもなかった。しかし、躊躇しても仕方がないと思い、腹を決めて引き受けることにした。給与主任といっても机の上の仕事で、給与中隊が作業部隊であり、炊事や食堂、糧秣運搬、水汲みなどは他の人が仕事の責任を分担していた。炊事はわれわれにとってはあこがれの職場で、とにかく食い物に近いため、絶対的に人気があった。

そこで働く人達に対して糧秣に特別なノルマがあるわけではないが実際に腹一杯、少なくとも一般の人よりも余計に食べられる。だから、炊事や食堂の勤務者は身体検査の際に一目でわかった。身体検査は結構頻繁に行われたが、痩せ細って、艶のない皮膚のたるんだ人達を並べ、白衣を着たソ連の軍医が次々に尻を叩いて「ハラショー」と言うのであったが、太ってハリのある膚をして一目でわかるのが炊事や食堂の勤務者であった。食物の違いが、これだけ身体に響くことを改めて知らされる思いであった。

ところで、ラーゲルの民主化運動は、エラブガでほとんど盛り上がりをみせなかった。それは、将校集団で、いわば知的訓練を比較的多く受けているため、のめり込む者が少なかったこと、また、ソ連側もそれほどの熱意をもっていなかったことなどが考えられる。

メーデーなどで隊列を組んでデモをやったが、いってみれば、見せる程度のものであって、労働運動などと称すべきものではなかった。

軍隊であればこそ、佐官、尉官などの階級はあるが、戦争に負け、その軍隊がなくなったとすれば、階級章などは不用な存在となる。エラブガのラーゲルに入って間もなく、一人二人と階級章を外すようになった。特に尉官クラスは間もなく全員が階級章をつけなくなったが、佐官クラスは依然としてつけている者もいた。なかには参謀肩章まで外さない人がいたが、階級章を外したとなれば、敬礼の後先を問題にすることもない。自然と敬礼もしなくなった。

1 年ほど経った時に、われわれは縫製工場に頼んで、ちょうどドイツの将校達がそうしていたように、軍服を詰襟から開襟型に変え、なんとなく背広型に、靴も軍服から普通の型に改造した。それも、早く軍隊色から抜け出したいという気持ちの表れではなかったか、と思う。

ラーゲルの管理部門の中核を占めていたのも佐官級ではなく尉官級、それもほとんど小中尉クラスであった。そこは、従来の軍隊組織では見られない所であって、民主化といえば、言えないこともなかろうかと思った。佐官クラスは集められていくつかの中隊をつくっていた。ソ連側もなし崩し的に軍隊組織を崩壊させる手伝いをしていたと考えられた。