会長就任での決意

強制抑留間の労働に対する補償要求の運動は、戦後間もなく始まったということではなくて、かなり経ってから自然発生的に生じてきたものである。どうしてそういうことになったのか、ドイツなどにおけるように戦後間もまく補償されるということになれば、もっと早く解決をしていたのではないかと思うが、ソ連に抑留されていたわれわれにとっては、抑留というのはまことに忌まわしいことであって、できれば人に語りたくない経験であるという気持ちがあり、同時に多くの人が亡くなり、病気に罹る、あるいは手足の指を失うというようなことになっているのに対し、元気とまではいわないまでも無事帰ってきたということで満足をしなければならない。そしてまた、内地にいた人より2年も3年も、長い人は10年も経てから戻ってきたので、いろんな意味において大変な苦労をし、また生活のために人一倍努力もしなければならなかったという事情があって、なかなか補償要求の運動をするという気持ちにならなかったのではないか。

考えてみれば、南方に抑留されたものは、それぞれ賃金についての支払いを受ける、あるいはアメリカ、カナダ等に抑留されていた人達もそれぞれ相応の補償を受けるということが明らかになってくる、あるいは不法とはいえ、ソ連や韓国に拿捕された漁船の乗組員に対しても、しかるべき補償が行われる。こうした事実を目の前にしては、われわれに対しても国が何らかの意味で配慮があってしかるべきという思いが募ってきて、自然発生的にこの運動が起こってきたのである。

ソ連抑留者の運動は九州から始まり、全国統一へと拡大発展したが、この運動が本格化したのは、昭和55年1月、私が会長に就任した頃からであった。

何故、私が会長を引き受けたか。当時、私は衆議院議員であった。つまり、鳥取県というひとつの選挙区から選出されている議員であるから、こういう問題に取り組むには全国区、今でいう比例代表区の議員である方が望ましいのではないかと、再三再四固辞をしたわけであるが、選挙運動と関連をつけられることは運動として純粋なものにならない、むしろ直接選挙運動に関係のない先生に会長を引き受けてもらうことがわれわれとしては願わしい。とのようなことで、関係者から強い要請があり引き受けることにしたのである。

無論、そういう要請をした方々は、私が大蔵省にあって長いこと予算の仕事をし、事務次官で辞めたという経験からして、こと予算に関することが多いだけに、そういう意味においては団体としての要求を実現するのに便利で役に立つという判断があったのではないかと、これは私の想像であるが、そう考えている。

いずれにしても、私も引き受けたからには運動が結実するように努力をしなければならないと固く決意をして今まで真剣に取り組んできたのである。この間における運動を振り返ってみると、本当に大勢の関係者の人たち、特に議員の人たちが日夜真剣に協力してくれたことに関して、まずもって感謝をしなければならない。