ラーゲリ(収容所)への移送
1964年、6月の終わりに赤羽さんはチタの駅から動物の檻のような囚人列車に詰め込まれ、身動きも出来ないまま悪臭と喉の渇きに耐え、半死半生の苦痛の極みを舐めながらまずイルツークへ移送された。乗り換えて、また牛馬よりひどい状況で折り重なって詰め込まれ、ただわずかな気力だけで次はノボシビルスクへ。炎天下の道では歩くのが遅れれば護送兵に怒鳴られ、犬がけしかけられた。村人たちは遠くから見つめ、ささやき合っていた。中継所に着くと、そこは粗末なバラックだった。そこからさらに、汽車に乗り、更なる中継地点を経て、9月4日にソ連領カザフスタンの「アクモリンスク第十三分所」に着いた。赤羽さんの住居となった女囚のための建物の近辺には千人の女囚が収容されていた。隣には男性ラーゲルもあった。ラーゲル(またはラーゲリ)とは、ソ連時代に体制に違反したとみなされた政治的反対者や戦時捕虜を労働によって叩き直すための「矯正労働収容所」という意味であり、1962年にソルジェニーツィンの発表した「イワン•デニーソヴィチの一日」にその実態が取り上げられている。
カザフスタンのラーゲリでの生活
そのラーゲルでは、赤羽さんは刺繍工場で働くことになった。日課は次の通り。
朝六時に起床。七時には仕事へ。門前に整列して点呼。その時にはいつも警備隊長がこのように言った。「囚人部隊、気をつけ!行進中には縦隊の秩序を厳格に守れ!隊を崩すべからず!話し合うべからず!よそ見するべからず!左右に一歩でも出ようものなら逃亡とみなし、警戒兵は無警告に発砲する。」それから歩いて五分の工場へ。午前十時に十分の休憩。十二時に午前中の仕事が終わり、ラーゲルに帰って黒パンとスープ、油が一滴だけかかった粥だけの昼食をとる。午後一時、作業再開。五時に仕事終了。夕食はいつも同じものに、たまにキャベツ、人参、砂糖大根を切った酸っぱく塩からいピンク色のサラダ。午後九時に最後の点呼の後、午後十時消灯。鉄条網はあったが、チタに比べると、自由時間は開放感があった。
ラーゲリでの生活に関して赤羽さんはこう書いている。「ここでの食事は、全くまずしかった。スープは味がなく、固い塩漬のキャベツと人参が沢山入っている。匙でかきまわしてもジャガイモのかけらも引っかからぬ時は、思わず涙がこぼれてくることがあった。」「便所に自由に行ける喜びは大きかった。ラーゲルの便所は、これまた妙な造りで、通路をはさんだ両側に、直径30センチほどの丸い穴が、七、八個ずつ並んでいるだけ。間の仕切りはない。しゃがむと隣りの人とすれすれになった。その上、手を洗う設備も全然ない。」「気をつけて見ていると、カザフの女性が大勢いた。ソ連人の方では、これら少数民族は文化の程度が低いといい、アジアータと呼んで区別していた。ラーゲルには、ソ連人の他に、色々の民族がいた。ドイツ人、ルーマニヤ人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ、ラトビヤ、リトワニヤの人々、チェチェン人、タタール人、トルクメン人、アセルバイジャン人、アメリカ人、フランス人。(日本人は赤羽さんただ一人であった。)何の罪でここに連れてこられたのであろう。ソ連の事情に疎い私も、こうした大量の女たちを見るにつけ、何か暗いものを感ぜずにはいられなかった。」「暗い気分になったことはまだあった。ラーゲルについて間もなく、私はセーターを一枚と、大切な衣類二、三点を盗まれたのである。」「更に困ったのは、眼鏡を盗まれたことだった。たった一つきりの大事な眼鏡! 15の時から乱視の私はこれがなくては空のお月様も十個ぐらいに見えるほどだった。私はクロスステッチをやりたくても、できなかった。」「私は小さな、みすぼらしい女であった。美しい顔も、豊かな胸も腰も、女の魅力といわれるものは何一つなかった。若い頃は鏡を見て、もう少し美人だったらと、何度思ったかわからない。その不器量が、かえって今までの私を守ってきたとも言えるだろう。ラーゲルで、若い娘が侵されないことは不可能に近い。私は自分に魅力のないことを、かえって幸せと思っていた。」
ラーゲルには、年に一度、予告なしの持ち物検査があった。自分の持ち物は全て外へ運びだし、わら布団も丼もみな、土の上に並べて検査を受ける。その間に所持品を盗まれてしまうこともあるし、禁制品が万が一見つかれば、刑が追加される。虱の検査もあった。熱気消毒で衣類の虱は死んでしまうが、頭にわいた虱が発見された女囚は髪を切られてしまった。南京虫の検査もあった。見つかれば、徹底した南京虫退治が命ぜられたが、薬品など、一つもない。それで、ベッドの板を戸外に運びだし、思い切り高く持ち上げ、地面にふり落として、南京虫をふり落とすのだった。
バラックの中は、チタの監獄とは比べものにならないくらい寒かった。百人に一つ小さなペチカがあるだけで、赤羽さんは、室内でも綿入れの労働服を着て震えていた。隙間風吹く丸木小屋のバラックの乏しい暖房の中で囚人たちが凍え死ななかったのは、多人数が二段ベッドに、ぎっしりと詰め込まれていたせいであった。人いきれが暖房の役割をしていたのだ。冬には赤羽さんは、奉天でもらった旧日本兵用の防寒帽と軍靴と苦力服を着ていた。小さい体に全然合っていない男物を着ていていたので、ひときわ、みすぼらしく見えた。しかし、赤羽さんはこれは恥とは思わず、「これは自分の仮の姿だ、自分の本当の姿は別にあるのだ」と思って辛抱した。
入浴は週一回。ラーゲルから一キロも離れたところに、雪の中を行進して行った。中には杖をついた八十歳に近い老婆もいて、遅れがちになっては警戒兵に怒鳴られていた。風呂場にたどり着くと、脱いだ服をまず熱気消毒して、女囚は裸のままずらりと椅子に並んで座り、一時間ほど待たされた。色々な肌の色。飛び交うおしゃべり。うんざりするような長い待ち時間の後やっと浴室の扉が開くと、消しゴムほどの小さな石鹸をもらって、皆浴室へとなだれこんだ。浴室と言っても浴槽はなく、湯桶に二杯お湯をもらって、それで髪から身体まで全部洗うという「入浴」であった。そしてまた再び一キロの道を歩いて帰り、バラックについた時には、身体はすっかり冷え切っていた。
ラーゲリ(収容所)への移送
1964年、6月の終わりに赤羽さんはチタの駅から動物の檻のような囚人列車に詰め込まれ、身動きも出来ないまま悪臭と喉の渇きに耐え、半死半生の苦痛の極みを舐めながらまずイルツークへ移送された。乗り換えて、また牛馬よりひどい状況で折り重なって詰め込まれ、ただわずかな気力だけで次はノボシビルスクへ。炎天下の道では歩くのが遅れれば護送兵に怒鳴られ、犬がけしかけられた。村人たちは遠くから見つめ、ささやき合っていた。中継所に着くと、そこは粗末なバラックだった。そこからさらに、汽車に乗り、更なる中継地点を経て、9月4日にソ連領カザフスタンの「アクモリンスク第十三分所」に着いた。赤羽さんの住居となった女囚のための建物の近辺には千人の女囚が収容されていた。隣には男性ラーゲルもあった。ラーゲル(またはラーゲリ)とは、ソ連時代に体制に違反したとみなされた政治的反対者や戦時捕虜を労働によって叩き直すための「矯正労働収容所」という意味であり、1962年にソルジェニーツィンの発表した「イワン•デニーソヴィチの一日」にその実態が取り上げられている。
カザフスタンのラーゲリでの生活
そのラーゲルでは、赤羽さんは刺繍工場で働くことになった。日課は次の通り。
朝六時に起床。七時には仕事へ。門前に整列して点呼。その時にはいつも警備隊長がこのように言った。「囚人部隊、気をつけ!行進中には縦隊の秩序を厳格に守れ!隊を崩すべからず!話し合うべからず!よそ見するべからず!左右に一歩でも出ようものなら逃亡とみなし、警戒兵は無警告に発砲する。」それから歩いて五分の工場へ。午前十時に十分の休憩。十二時に午前中の仕事が終わり、ラーゲルに帰って黒パンとスープ、油が一滴だけかかった粥だけの昼食をとる。午後一時、作業再開。五時に仕事終了。夕食はいつも同じものに、たまにキャベツ、人参、砂糖大根を切った酸っぱく塩からいピンク色のサラダ。午後九時に最後の点呼の後、午後十時消灯。鉄条網はあったが、チタに比べると、自由時間は開放感があった。
ラーゲリでの生活に関して赤羽さんはこう書いている。「ここでの食事は、全くまずしかった。スープは味がなく、固い塩漬のキャベツと人参が沢山入っている。匙でかきまわしてもジャガイモのかけらも引っかからぬ時は、思わず涙がこぼれてくることがあった。」「便所に自由に行ける喜びは大きかった。ラーゲルの便所は、これまた妙な造りで、通路をはさんだ両側に、直径30センチほどの丸い穴が、七、八個ずつ並んでいるだけ。間の仕切りはない。しゃがむと隣りの人とすれすれになった。その上、手を洗う設備も全然ない。」「気をつけて見ていると、カザフの女性が大勢いた。ソ連人の方では、これら少数民族は文化の程度が低いといい、アジアータと呼んで区別していた。ラーゲルには、ソ連人の他に、色々の民族がいた。ドイツ人、ルーマニヤ人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ、ラトビヤ、リトワニヤの人々、チェチェン人、タタール人、トルクメン人、アセルバイジャン人、アメリカ人、フランス人。(日本人は赤羽さんただ一人であった。)何の罪でここに連れてこられたのであろう。ソ連の事情に疎い私も、こうした大量の女たちを見るにつけ、何か暗いものを感ぜずにはいられなかった。」「暗い気分になったことはまだあった。ラーゲルについて間もなく、私はセーターを一枚と、大切な衣類二、三点を盗まれたのである。」「更に困ったのは、眼鏡を盗まれたことだった。たった一つきりの大事な眼鏡! 15の時から乱視の私はこれがなくては空のお月様も十個ぐらいに見えるほどだった。私はクロスステッチをやりたくても、できなかった。」「私は小さな、みすぼらしい女であった。美しい顔も、豊かな胸も腰も、女の魅力といわれるものは何一つなかった。若い頃は鏡を見て、もう少し美人だったらと、何度思ったかわからない。その不器量が、かえって今までの私を守ってきたとも言えるだろう。ラーゲルで、若い娘が侵されないことは不可能に近い。私は自分に魅力のないことを、かえって幸せと思っていた。」
ラーゲルには、年に一度、予告なしの持ち物検査があった。自分の持ち物は全て外へ運びだし、わら布団も丼もみな、土の上に並べて検査を受ける。その間に所持品を盗まれてしまうこともあるし、禁制品が万が一見つかれば、刑が追加される。虱の検査もあった。熱気消毒で衣類の虱は死んでしまうが、頭にわいた虱が発見された女囚は髪を切られてしまった。南京虫の検査もあった。見つかれば、徹底した南京虫退治が命ぜられたが、薬品など、一つもない。それで、ベッドの板を戸外に運びだし、思い切り高く持ち上げ、地面にふり落として、南京虫をふり落とすのだった。
バラックの中は、チタの監獄とは比べものにならないくらい寒かった。百人に一つ小さなペチカがあるだけで、赤羽さんは、室内でも綿入れの労働服を着て震えていた。隙間風吹く丸木小屋のバラックの乏しい暖房の中で囚人たちが凍え死ななかったのは、多人数が二段ベッドに、ぎっしりと詰め込まれていたせいであった。人いきれが暖房の役割をしていたのだ。冬には赤羽さんは、奉天でもらった旧日本兵用の防寒帽と軍靴と苦力服を着ていた。小さい体に全然合っていない男物を着ていていたので、ひときわ、みすぼらしく見えた。しかし、赤羽さんはこれは恥とは思わず、「これは自分の仮の姿だ、自分の本当の姿は別にあるのだ」と思って辛抱した。
入浴は週一回。ラーゲルから一キロも離れたところに、雪の中を行進して行った。中には杖をついた八十歳に近い老婆もいて、遅れがちになっては警戒兵に怒鳴られていた。風呂場にたどり着くと、脱いだ服をまず熱気消毒して、女囚は裸のままずらりと椅子に並んで座り、一時間ほど待たされた。色々な肌の色。飛び交うおしゃべり。うんざりするような長い待ち時間の後やっと浴室の扉が開くと、消しゴムほどの小さな石鹸をもらって、皆浴室へとなだれこんだ。浴室と言っても浴槽はなく、湯桶に二杯お湯をもらって、それで髪から身体まで全部洗うという「入浴」であった。そしてまた再び一キロの道を歩いて帰り、バラックについた時には、身体はすっかり冷え切っていた。
ウクライナの娘たち
様々な人種が入り混じっていたラーゲルの中で赤羽さんはたった一人の日本人ではあったが、その中で、外国文化についてしっかりと観察をしていた。自分の境遇を嘆き悲しんでいるだけだったら、そのようなことはできなかったであろう。冷静に周囲の事実を見つめ、更に客観的な考察を加えることのできた赤羽さんには、時代の先を行く、鋭い感性があったと思う。
「やがて、クリスマスが訪れたが、もとよりラーゲルにはなんの行事もなかった。しかし、ウクライナの娘たちの間には、宗教的な雰囲気が漂っていた。いつもより綺麗な頭巾をかぶり、白いブラウスに黒いサロファン(肩からのスカートの一種)をつけ、三、四人ずつ集まって、澄んだ声で聖歌を歌っていた。この娘たちは大部分、刺繍工場の私の横でクロスステッチをしていた。みなで二、三十人はいただろうか。長い髪をきれいに編んでお下げにし、ある者は冠のように頭の周りに巻きつけていた。その上から白い三角巾をつけて、顎の下で結ぶ。みな品の良い顔立ちで、動作もソ連人よりずっとしとやかだった。彼女たちは故郷で、ウクライナの独立を目指す組織に加わっていたとかで、全員、第五十八条、十年の刑を宣告されていた。ウクライナの父母からは、時々小包が届くので、ほか女囚よりは身ぎれいに装うことができたようだ。肉親からの手紙も度々届いていた。それに読みふける彼女たちの姿は、美しく、羨ましい限りだった。しかし、一ヶ月でも手紙が途絶えると、はた目にも痛ましいほど彼女たちは心配し始める。故郷の肉親に対する政治的、経済的不安は、ウクライナ娘たちの場合、殊に大きいのであった。娘がラーゲルに入ったため、流刑のうきめを見た親もあれば、良い仕事を首になった身内もいる。仲間の中にこうした例を数多く見て来た娘たちは、音信の途絶えをすぐに不幸に結びつけ、心も落ち着かぬ様子であった。そんな娘たちを見ていると、最初は手紙を羨んでいた私も、帰って手紙などには縁のない自分の境遇をよしとするようになった。少なくとも日本では、私がソ連に捕まったからといって、肉親が不幸な目に会うはずはない。むしろ同情されていることを、私は固く信じた。手紙も小包も何も来ないのは寂しかったが、来ないものと諦めてしまえば、もうあれこれと気を回すことはない。可憐なウクライナの娘たちに、私は同情するようになった。」
病院へ
もとより体の弱かった赤羽さんは、この頃リンパ腺が膨れあがり、病院へ送られた。気づくと骸骨のように飛び出した肋骨が一本一本見える体となっており、ロシア語を教えてもらっていた友達のワーニャとも離れることになり、ポタポタと涙を落として泣いた。その頃チャーチルがソ連圏を「鉄のカーテン」と呼ぶようになっていたが、赤羽さんは、その「鉄のカーテン」の中に閉じ込められてしまっていた。その生活環境の中では何かを知ろうとすればスパイだと噂されたり、密告されることもあったので、一人思いをめぐらせながらも、確かなことを知る術は一つとしてなかった。治療らしい治療もないまま入退を繰り返す中、膿をもったグリグリは大きくなる一方だったし、目やにも止まらず、視覚もままならなかった。唯一入院中の食事だけはバターや牛乳が加わり、スープの中にもジャガイモがあり、肉も一切れあった。そして、心優しいロシアの婦人であった女囚からロシア語を習うことができた。病院ではよく刺繍をしていた。赤羽さんの刺繍は定評があり、女囚や女看守、警備のソ連兵からも時々注文があった。
時々重症患者の様子を見にきて釈放を言い渡す検閲官がいたので、もしかしたらと、釈放に一縷の望みを持ったこともあったが、五十八条で受刑中だと、釈放されることもないとわかり、赤羽さんは突然激しい目まいと苦しみに襲われ、恐怖に胸をしめつけられそうになった。その頃日本兵が一人向こうの建物に来ていることがわかり、その男性から日本の捕虜はだいたい帰国したことを知った。
日本の菊
病院生活も二年を過ぎた頃も刺繍の注文は続き、僅かでも小遣い銭になっていた。退院の時には院長に頼まれて「日本の菊」を刺した。一つは薄桃色、もう一つは黄色の大輪の菊。刺している間、病人たちは代るがわる出来映えを見に来ては、「陽光の中で生きているようだ」と言った。院長はとても喜び、お茶をご馳走してくれた。けれど悲しいことが起きた。以前奉天の官房で偶然一緒になった日本人女性の田中さんに病院で再会したのだが、重症の結核患者として別の病室に運び込まれ、駆けつけた時には既に変わりはてた彼女の姿があった。「病院でタナカが死んだ」というニュース。カザフスタンの広野で寂しく死んだ愛娘のことを、日本の両親はどんなに嘆き悲しむだろう。彼女は尋問の時に激しく投打されたことが結核の原因となったのだ。赤羽さんは他人事とは思えず、身にしみて辛く思った。
ラーゲルの女達
ソ連と日本の国交については何もわからず、家族とはずっと音信不通だったが、一度大連の家族に手紙を出したいと思った時、満州から日本人はすでに皆引き上げて、赤羽さんの生まれそだった満州のその土地に父母はもういないことを知り、寂しい日が続いた。だが、ラーゲルの中では比較的友達には恵まれていた。ポーランド人のエレーナやウクライナ娘の美しいハヌーシャは心地よいロシア語で本を読んでくれた。ハヌーシャにはお返しに英語を教えた。手紙を書いてくれるロシア人の婦人もあった。ドイツ人のヘーデーは、合理的で緻密で限られた素材を使って、セーターを編んでくれた。ネリーというユダヤ人は人に迷惑をかけても平気で、ラーゲル側のスパイだという噂もあった。この女囚たちの九割は25年の刑を宣告されていたので、赤羽さんの胸は痛んだ。戦争が終わって既に五年が経ち、釈放は目の前に来ていたが、この先何が起こるかは、何もわからなかった。
様々な人種が入り混じっていたラーゲルの中で赤羽さんはたった一人の日本人ではあったが、その中で、外国文化についてしっかりと観察をしていた。自分の境遇を嘆き悲しんでいるだけだったら、そのようなことはできなかったであろう。冷静に周囲の事実を見つめ、更に客観的な考察を加えることのできた赤羽さんには、時代の先を行く、鋭い感性があったと思う。
「やがて、クリスマスが訪れたが、もとよりラーゲルにはなんの行事もなかった。しかし、ウクライナの娘たちの間には、宗教的な雰囲気が漂っていた。いつもより綺麗な頭巾をかぶり、白いブラウスに黒いサロファン(肩からのスカートの一種)をつけ、三、四人ずつ集まって、澄んだ声で聖歌を歌っていた。この娘たちは大部分、刺繍工場の私の横でクロスステッチをしていた。みなで二、三十人はいただろうか。長い髪をきれいに編んでお下げにし、ある者は冠のように頭の周りに巻きつけていた。その上から白い三角巾をつけて、顎の下で結ぶ。みな品の良い顔立ちで、動作もソ連人よりずっとしとやかだった。彼女たちは故郷で、ウクライナの独立を目指す組織に加わっていたとかで、全員、第五十八条、十年の刑を宣告されていた。ウクライナの父母からは、時々小包が届くので、ほか女囚よりは身ぎれいに装うことができたようだ。肉親からの手紙も度々届いていた。それに読みふける彼女たちの姿は、美しく、羨ましい限りだった。しかし、一ヶ月でも手紙が途絶えると、はた目にも痛ましいほど彼女たちは心配し始める。故郷の肉親に対する政治的、経済的不安は、ウクライナ娘たちの場合、殊に大きいのであった。娘がラーゲルに入ったため、流刑のうきめを見た親もあれば、良い仕事を首になった身内もいる。仲間の中にこうした例を数多く見て来た娘たちは、音信の途絶えをすぐに不幸に結びつけ、心も落ち着かぬ様子であった。そんな娘たちを見ていると、最初は手紙を羨んでいた私も、帰って手紙などには縁のない自分の境遇をよしとするようになった。少なくとも日本では、私がソ連に捕まったからといって、肉親が不幸な目に会うはずはない。むしろ同情されていることを、私は固く信じた。手紙も小包も何も来ないのは寂しかったが、来ないものと諦めてしまえば、もうあれこれと気を回すことはない。可憐なウクライナの娘たちに、私は同情するようになった。」
病院へ
もとより体の弱かった赤羽さんは、この頃リンパ腺が膨れあがり、病院へ送られた。気づくと骸骨のように飛び出した肋骨が一本一本見える体となっており、ロシア語を教えてもらっていた友達のワーニャとも離れることになり、ポタポタと涙を落として泣いた。その頃チャーチルがソ連圏を「鉄のカーテン」と呼ぶようになっていたが、赤羽さんは、その「鉄のカーテン」の中に閉じ込められてしまっていた。その生活環境の中では何かを知ろうとすればスパイだと噂されたり、密告されることもあったので、一人思いをめぐらせながらも、確かなことを知る術は一つとしてなかった。治療らしい治療もないまま入退を繰り返す中、膿をもったグリグリは大きくなる一方だったし、目やにも止まらず、視覚もままならなかった。唯一入院中の食事だけはバターや牛乳が加わり、スープの中にもジャガイモがあり、肉も一切れあった。そして、心優しいロシアの婦人であった女囚からロシア語を習うことができた。病院ではよく刺繍をしていた。赤羽さんの刺繍は定評があり、女囚や女看守、警備のソ連兵からも時々注文があった。
時々重症患者の様子を見にきて釈放を言い渡す検閲官がいたので、もしかしたらと、釈放に一縷の望みを持ったこともあったが、五十八条で受刑中だと、釈放されることもないとわかり、赤羽さんは突然激しい目まいと苦しみに襲われ、恐怖に胸をしめつけられそうになった。その頃日本兵が一人向こうの建物に来ていることがわかり、その男性から日本の捕虜はだいたい帰国したことを知った。
日本の菊
病院生活も二年を過ぎた頃も刺繍の注文は続き、僅かでも小遣い銭になっていた。退院の時には院長に頼まれて「日本の菊」を刺した。一つは薄桃色、もう一つは黄色の大輪の菊。刺している間、病人たちは代るがわる出来映えを見に来ては、「陽光の中で生きているようだ」と言った。院長はとても喜び、お茶をご馳走してくれた。けれど悲しいことが起きた。以前奉天の官房で偶然一緒になった日本人女性の田中さんに病院で再会したのだが、重症の結核患者として別の病室に運び込まれ、駆けつけた時には既に変わりはてた彼女の姿があった。「病院でタナカが死んだ」というニュース。カザフスタンの広野で寂しく死んだ愛娘のことを、日本の両親はどんなに嘆き悲しむだろう。彼女は尋問の時に激しく投打されたことが結核の原因となったのだ。赤羽さんは他人事とは思えず、身にしみて辛く思った。
ラーゲルの女達
ソ連と日本の国交については何もわからず、家族とはずっと音信不通だったが、一度大連の家族に手紙を出したいと思った時、満州から日本人はすでに皆引き上げて、赤羽さんの生まれそだった満州のその土地に父母はもういないことを知り、寂しい日が続いた。だが、ラーゲルの中では比較的友達には恵まれていた。ポーランド人のエレーナやウクライナ娘の美しいハヌーシャは心地よいロシア語で本を読んでくれた。ハヌーシャにはお返しに英語を教えた。手紙を書いてくれるロシア人の婦人もあった。ドイツ人のヘーデーは、合理的で緻密で限られた素材を使って、セーターを編んでくれた。ネリーというユダヤ人は人に迷惑をかけても平気で、ラーゲル側のスパイだという噂もあった。この女囚たちの九割は25年の刑を宣告されていたので、赤羽さんの胸は痛んだ。戦争が終わって既に五年が経ち、釈放は目の前に来ていたが、この先何が起こるかは、何もわからなかった。