募る失意と望郷の念

京城の街の姿が午前中と変わっているわけではないのに、街を歩く人の顔つきが何となく違っている。外国との戦いに敗れるということがどんなものであるか、私達日本人は知らなかった。それが、どんなものであるかは、やがて自ずから体験することになるのであった。

京城の街をあてどもなく歩き回った。暑い夏の日がギラギラと照りつけていたが、何となく日本の夏と違う。無論、漢口の夏の日とも違う。漢口の夏は本当に暑かった。落雀の候という言葉が大げさでないことを知らされるような暑さであった。汗は蒸発しない。歩くと手の指の先から水浴びのあとのように汗が滴り落ちる。そんな暑い夏とは違うが、京城の夏も暑かった。

宿屋の備前屋は、その名の示すように主人が岡山県の出身であった。当時は将校の宿泊所としての契約ができていたようであった。宿は、落ち着いた日本式の建物で、割烹旅館になっていた。風呂に入って、心づくしの膳で一杯飲み始めたが、どうにも気持ちがおさまらない。万感こもごも到るというのは、まさにその時の心境であったろう。

しきりと国のことが思い出されてきた。父や母や妹達はどうしているだろうか。横浜も空襲を受けたと聞いているが、家は焼けなかったろうか。戦が終ったと聞いてホッとしているのだろうか。北京の佐藤の一家は終戦と聞きどうしているだろうか。周子は無事だろうか。

手紙を書くことにした。幸い手元にはがきが十枚ほどあった。猪口を傾けながら、1枚また1枚とはがきを書いた。両親、周子や妹達、親友など。

はがきを書いているうちに、何とはなく涙が流れてきた。昭和19年の春、経理部見習士官20数名が乗った汽車が東京駅を発って横浜駅を通り下関へ向かっていた。あらかじめ、横浜駅を通過する時間がわかっていたので家へ知らせておいた。プラットフォームには父と二人の妹が立って手を振っていた。短い停車時間であったので、窓を開けての会話にすぎなかった。

いつまた会えるか、もうこれから会えないかもしれない。戦地へ赴くのである。軍籍にあるから当然のことといえばその通りだが、自分の身になってみれば、本当に気の滅入ることであった。下の妹がいくらかの食べ物に添えて、小さい人形をくれた。私の代りにこれを連れていってくださいという手紙が添えてあった。自分で布を縫って作った人形で、ちょうどお守り袋にいれるような大きさであった。

父も年をとったなと思った。姉妹のなかのたった一人の男の子であるだけに、私を戦地に送る気持ちは悲しかったろうと思う。汽車はやがて、汽笛とともに走り出す。窓から振る手の先から、父や妹の姿がすぐに消えていった。船と違って汽車の別れはあっけないものである。仲間の見習士官達から何か話しかけられるのも上の空で、人形を握りしめて涙をこらえながら、しばらくは床を見つめたまま誰にも口をきいてもらいたくなかった。

そんな駅頭のことも胸に浮んできた。いろんなことがあった。北京で許婚者の一家に会って、やれ嬉しやと思ったのも束の間、杜の都といわれた美しい古都とも別れなければならなかった。

暑い夏を咸寧(湖南省)の田舎町で過した。旅団司令部の所在地であるというのに電灯も点っていなかった。毎日砂まじりの飯にとうがんの味噌汁。アメリカの第20航空軍の爆撃機、戦闘機が毎日何度も上空を通る。桂林から漢口へ飛ぶ往還に、ついでに銃爆撃を加えていくのであった。