収容所から作戦命令

ソ連軍との間には、われわれ日本軍は鉄道沿線に駐屯し、在留邦人が全部引揚げるまで警備に当り、一番あとで引き揚げるという協定が結ばれたという説明があった。協定書を見たわけではないが、われわれはそれを信じていた。

われわれは、結局ソ連軍に騙されていたわけであるが、当時はそうは思わず、大真面目に協定なるものを信じていた。しかし、本当は、定平の中学校の校舎に押し込められた時に気がついていなければならなかったのだ。

定平の中学校には、われわれ軍司令部の将校だけではなく、隷下の師団、旅団、直轄部隊などの将校も一緒に収容されていた。われわれがここに移った時には、まだソ連兵は来ていなかった。後者の部屋割を済ますと、軍司令部の事務室もできた。これからは戦闘ではなく、もっぱら衣食住が仕事だというわけで、われわれ経理部将校の出番だと考えたのか、I中佐も張り切って、物資の調達に精出すことになった。

といっても、住むところはあるし、被服も、物品もあるのだから、糧食の調達が主であった。それも、米はあるとなると、問題は副食であった。特に、野菜と魚である。トラックは、自動車大隊の新品が十台もあったし、 ガソリンも、どこにしまってあったのだろう、200本も校庭に並べられていた。

朝鮮はりんごが多い。われわれも、連日りんごの買出しに走り歩いた。主食や副食ではないりんごくらいしか自由に買えるものがなかったのかもしれない。

経理部の机と椅子のほかは何もないような事務室で、I中佐の指図のままに私は作戦命令を書いた。呂武集団作命丙であった(第34軍は通称呂武集団と言われていた)。

数日ならずして、ソ連兵も、例のマンドリンを抱えて数人歩哨に立つようになった。定平の中学校は、そのままに収容所になった。だから、今さら作命丙もクソもないのであって、そういう命令を下すことを支持すること自体が、状況判断を誤ること、これより甚しいものはなかった。作命丙は、いくつも出されたが、あらかた徒労に終った。われわれの宿舎は、完全にソ連軍の指揮下に置かれていた。

やがて、ソ連兵が点呼をするようになった。トラックやガソリンも押収されたし、糧秣も引き渡さざるを得なかった。りんごを買うどころの騒ぎではなくなった。

われわれは、教室に毛布を敷いて就寝していた。9月はまだ暑かった。ソ連兵の点呼は、だんだん乱暴になってきた。われわれ全員を校庭に整列させて、空っぽの教室に入り込み、目ぼしい物を片っ端から略奪した。われわれは、まだ軍刀を持つことを許されており、整列の際腰に吊していたからとられることはなかったが、金目の物はまず探し出されて奪われた。

私は、定平に入る時に、酒とタバコだけは不自由しないようにと、菊正を3本とタバコを800本ほど持ち込んだ。そのいわば虎の子もアッサリと奪われてしまった。せめて、酒だけでも飲んでおけばよかったのにな、と思ったが、すべてこれ後の祭りであった。

N大尉は、主計科の主任将校であった。彼は、上司の命令で朝鮮銀行振出しの小切手を大事に持っていた。ソ連兵に奪われないようにと、軍袴の下肢の部分の裏に丁寧に縫い込んでいたが、それもある朝の点呼で軍袴とともに奪われてしまった。軍袴を、うっかりはき替えた時であった。あの小切手はどうなったろうかと時々思い出すこともあるが、もう、とっくの昔に紙切れとなっているに違いあるまい。金額はたしか5千万円であった。

われわれは毎日することもなく、飯を食ってはブラブラしていた。校庭で野球をすることもあったが、ソ連のコンボイ(歩哨)には珍しいらしく、ニヤニヤしながらマンドリンを背に眺めていた。

碁、将棋、麻雀は盛んであった。私は、同じ司令部の永野少尉から毎日碁を習っていた。高等学校の頃、少し教わったが、ほんとにザル碁もいいところであった。永野少尉は、早稲田の囲碁部で主将をしていたというだけあって、確か棋院の三段と言っていたが、学生の有段者だけに本当に実力はあった。将校のなかにも四段や五段もいたが、彼は白を握って、問題にしていなかった。

彼の教え方は、一局打った後は、もう一度最初から全く同じように石を並べるのである。私は、途中で分からなくなってしまうが、彼は全部覚えていて、石を並べながら講評が入るのであった。じつによい先生であった。定平の生活がもう半年も続いていたら、私の碁も見違えるくらい強くなっていたに違いなかったなと、今でも思うことがある。

校庭に土俵も作られた。赤土の固い土俵であった。ある日、私は、仲間と角力をとった際、無理な姿勢で投げを打ちほぼ同体で倒れたが、身をかわせなくて相手の身体が顔に落ちてきた。モロに当たったため、私の下の右の親不知が半分欠けたのである。

痛いの何のって、あんなに痛い目に会ったことは、いまだかつてなかったかもしれない。虫歯も痛いが、全然丈夫な歯が割れたのであったから、堪ったもんではない。氷で冷やしてもダメ、痛みどめも効かない。軍医に頼んでモルヒネを打ってもらったが、さすがにこれは効いて、やっと寝られるようになった。ところが、モルヒネは5、6時間しか効かない。効き目が切れると、また激痛が襲ってくる。私は、日に何回も軍医に催促をし、1週間も打ってもらったが、モルヒネは本当によく効くものであった。

銀色の雪が乗って、フワフワと宇宙を遊泳しているような、この世にないような恍惚を覚えた。これが、病みつきになるとモヒ中毒になるということがよくわかったが、友人の軍医も1週間以上は打ってくれなかった。

単調な日が過ぎていった。食べ物も変化がなかった。もともと明日のことなど思い患うようになっていない軍隊の身は、次第に環境に慣れて、結構退屈はしなかった。麻雀は相変わらず盛んであったし、私の碁もいくらか上達した。

兵隊は歌が好きだ。われわれも碁、将棋に飽きると、みんなで歌を唄った。軍歌に始まって、演歌、寮歌、何でも唄った。私の歌のレパートリーが急速に拡がったのもこの定平の収容所に始まる抑留生活の間であった。