病院と診療所

ラーゲルには病院もあり診療所もあった。ロシア人の医者と看護婦が毎日勤務していたが、言葉の問題もあるため、日本人の医者や看護夫も沢山働いていた。というよりも実際は、むしろ日本人のほうが主力であった。将校収容所であっただけに軍医も沢山いたし、無論、かなり優秀な医者も召集で来ていた。

問題は病院や診療所の施設、設備、医薬品の劣化、不足であった。私は、ラーゲルではムチ打ち病の再発で10日ほど入院した以外、病院のお世話になったことはなかった。

毎月1回身体検査がある。診療所の女医が担当するわけであるが、聴診器を身体に当てるような面倒臭いことは抜きで、1ヶ所に並べたパンツ1枚の身体の痩せ具合、皮膚の色艶などを一瞥して、せいぜい尻を叩いて「ハラショー」(良い)と言うだけで、たまにひどく痩せたり、色艶の悪い人を見つけても、尻の皮を抓んでみたりして、弾力があれば、これまた「ハラショー」と言うぐらいであった。

いい加減だなと思ったが、5千人もいて、毎月検診ということになればこうでもするしかないのかもしれないし、たしかにたくさん並べてみれば、本当に身体の悪いものは、すぐわかる気がするから、案外このやり方は簡便で合理的なのかもしれない。

薬がないのには困ったもので、例えば発疹チフスがはやったことがあるが、その対策は「カランテイン」と称して、患者の発生した中隊の建物をぐるりと縄を張って隔離し、クロール・カルキを周辺に白く撒き散らすだけであった。一人、二人と患者が発生するごとに隔離中隊の数が増えていく。それに指定された中隊の隊員は皆喜んでいる。というのは、隔離されるとラボータ(労働)に出かけなくてよくなるからであった。

そんな中隊の隊員は乏しい朝食が終わるや手作りのマージャン牌で卓を囲み、将棋を指し、碁を打ち、それも面倒くさい人はただひたすら寝転んでエネルギーの消耗を防いでいるのであった。

患者の数が増えるにつれて隔離中隊の数が増え、だんだん隔離されていないほうが少なくなってくる。そこで、今度は逆に患者の発生していない中隊を隔離することになって、この隊員達が働かなくてよくなるという逆転現象が起こる。まことに原始的な方法であったが、これが功を奏してか、3ヶ月くらいで発疹チフスも終熄した。

風邪をひいても薬はない。頭に濡れたタオルを乗せてジッと寝ているだけであったが、これが効果を表すぐらいの体力は持っていたらしく、やがて治ると退院するのであった。

熱さましのアスピリンぐらいはあったので、高熱の患者には貴重品のように与えられたが、いずれもアメリカ製かドイツ製であった。アメリカ製は「援ソルート」で入ってきたものであり、ドイツ製は東ドイツから送られてきたに違いなかった。

「援ソルート」が広範囲で、かつかなり徹底していたことはソ連に抑留されてから到る所で見聞した。いかに大がかりな援助が行われていたかがわかるとともに、もしこういう援助がなかったら、ソ連がドイツ軍を破ることは到底できなかったに違いないと思った。

トラックはスチュアードベーカーの六輪車を到る所で見かけたし、飛行機もB26にそっくりで、確かめられなかったが、多分B26そのものが飛んでいた。砂糖はキューバ産、ミートはシカゴ産、という工合であった。

ドイツ人はわれわれは連合軍に負けたのではない、数が足りなかったのだと負け惜しみを口にしていたが、その伝でいくと、日本もアメリカ軍に負けたのではない、物量が不足していたのだということになるが、そんなことを言ってみたところで、何の足しにもならないことはわかっていた。

そんなことはもとからわかっていたのである。だからこそ、日米開戦は無謀な試みであったと言わざるを得ないのである。

こういう話をしていても仕方がない。しかし、医療関係の機械や器具、薬や衛生材料の足らないことはひどいものであった。私は、外科的な手術を受けなくて幸いだったが、歯の治療は受けたので、そのへんはいくらか知っている。

ジェレノドリスクの病院に入れられていた時に、歯がガタガタになってきた。栄養失調のような状態であったことも響いていると思う。あれは中学生の頃に西竹の丸(横浜市)の自宅近くの歯医者で沢山の虫歯の治療を受けたが、その時被せた金冠などが擦り減ったり、壊れたりしたことも原因であった。

歯科の治療台は、3、4台あって、歯科医はドイツ軍の軍医であった。私の歯の治療に当たった軍医も腕は悪くないような気がしたが、何せ薬や衛生材料もないに等しかったし、第一ドイツ語でやりとりしても充分に意思が伝えられず、じれったいったらありゃしないといった状態であった。歯を何本も抜かれたが、今思い出してもゾッとするくらいである。

ドイツの医学は明治以来、日本の手本であったし、医者は大抵ドイツ語の本を読み、カルテなどは全てドイツ語であった。カルテはドイツ語でという戦前からの医者も今ではほとんど見られなくなった。言葉はいくらか残っているようだが、まずは英語オンリーである。英語を大なり小なりわかる人が多くなってくると、医師同士の会話なども患者にわかって、まずい場合もあるという。

ソ連に抑留された日本の将兵は60万人のうち約1割の6万人が死亡した。森林伐採で倒れた材木の下敷きになったり、炭鉱の落盤などの不慮の災害で死んだものもあったが、圧倒的に多かったのは、栄養失調、発疹チフス、T・B(肺結核)、赤痢などの病気による死者であったと思う。栄養失調など、病気というより、食物が極端に不足していたために起こったものであるが、ある限度を越してしまうと、あとはいくら栄養のつくように食物を与えても、吸収する力がなくなって骸骨のように痩せ衰えて死んでいくことをこの眼でいくつも見たが、大変なショックであった。殺されたようなものである。

ソ連側に言わせれば、われわれ国民も食物に不自由していたし、そのなかでできるだけのことはしていたということになるのであろうが、そんな劣悪な条件のところになんで60万人もの将兵をわざわざ送り込んだのか、聞きたいものである。

ソ連側の責任は飽くまでも追求しなければならない。