抑留者団体の結成

ソ連抑留者は、内地で終戦を迎えた人、外地にはいたが比較的早く帰国できた人達にくらべていろいろな面で不利な取り扱いを受けたことは否定できないと思う。また、帰国後しばらくは、お互いに集りをもつようなことは、一部のごく親しい仲間を除いてなかったかと思う。皆、自分の生活の場を確保し、家族を養っていくのが手一杯であったと思う。それが、日本が連合国軍の軍政下状態を脱する(昭和27年4月)ようになってからかもしれないが、次第に抑留者仲間が集まる機会が増えるようになってきた。

連合軍の占領下で逼塞していた旧軍人達も、昭和25年の警察予備隊の創設(後に自衛隊となる)などもあって、遠慮がちながら世の中の表面に出てくるようになったし、同じ部隊で釜の飯を食った連中、同じ外地で辛酸を舐めた連中が三々五々と集まって旧懐を温めるようになった。

ソ連抑留者の間でも同じような動きが世話好きな人達の働きで推進され、どうも、ソ連抑留者がいわば一番酷い目に遭ったことは紛れもない事実であるし、何らかのかたちでソ連政府に対して物申す必要があるのではないか、という気運が高まってきた。

東京にエラブガ都人会が結成されたのは何時の頃だったろうか。エラブガ会は東京以外にも、近畿、名古屋などで続々としてつくられるようになった。

東京のエラブガ会には、他の会と一つ違ったところがあった。それは、エラブガに収容されていた将校の中に山本稚彦という著名な彫刻家がいて、エラブガ在住中に白樺の木で観音菩薩の像を彫り、それを大事に持ち帰ったので、それを会のいわば象徴として礼拝をするようになったことである。それは「エラブガ佛」と呼ばれるようになり、普段は抑留者の一人で僧籍のある釈真照氏の雲照寺に安置していただくようになっていた。

このような会は、もちろん親睦を旨とするものであったが、そのうち次第に抑留者のなかから処遇の改善を求める声が高くなり、各地に団体が結成されたが、昭和54(1979)年、全国的な団体が結成されることになった。団体の名は「全国戦後強制抑留者補償要求推進協議会中央連合会」(以降、全抑協)という大変長いものであった。

私は、推されてこのソ連抑留者の全国組織である全抑協の会長となって久しいが、この運動の立ち上がりが遅かったのは、一つには、皆の心に抑留時代を思い起こしたくないという気持ちが働いていたのではないか、と思う。

それにしても、軍人恩給が復活をする、外地引揚げ者が現地に残した財産の補償を求めて団体を組織して運動を展開するというような情勢になってくると、われわれも泣き寝入りばかりしているのはおかしいではないか、という気持ちが沸々と湧いてきて、いわば自然発生的に団体の運動が開始された。

全抑協は、そういう意味でいわば要求を掲げて闘う団体であるが、これとは別に平和祈念基金が創設された際に、別途支出された5億円を基金として財団法人「全国強制抑留者協会」(これまた略して「全抑協」)が設立され、私が当初から会長を勤めている。この団体はいわば御用団体であって、政府がソ連抑留者に対して行なう施策を支援する仕事を委されているので、政治活動は制限されていた。