v. 1953-1955.4

流刑地からの帰国

赤羽さんは、新しくアンナフョードロヴナの家に住むことになった。アンナはドイツ系のロシア人で、十歳年上の流刑人で、医科大学で学んだ学問のある人だった。託児所の保母の月給は310ルーブルだった。生後三ヶ月から三歳までの17人の子供達の面倒をみた。ロシアの童謡、英語の歌、日本のハトポッポなど知っている限りの歌を一緒に歌ったり、動物や花の絵を描いて壁に貼ったりした。八時間労働が建前だったが、実際には一日十時間以上働いた。でも、一日の仕事を終えると家では静かな憩いの時があり、アンナ女史から発音を直してもらったりした。彼女は優れていて、信頼しあえる人だったのは幸せだった。日曜日には一緒に野葡萄を摘みに行き、一緒に河で水浴することもあった。

195335日、スターリンが死んだ。モスクワでの告別式と同じ日にベイ村でも追悼式が行われた。その後、その年の間中赤羽さんは村を離れてよいという知らせを待ち続けたのだが、何の知らせもなかった。そんな中、ベイ村に送られて来た馬場さんという一人の日本人がいて、心強くなった。引揚船興安丸が在ソの同胞を載せて舞鶴に入港したのは、195312月であったのに、それを知ったのはソ連の新聞記事プラウダの紙上で、19543月のことであった。それを見て、帰国を予感し、赤羽さんは身辺の整理を始めた。そしてモスクワのソ連赤十字に嘆願書を何度も送ると、突然5年の刑満期者全員に、証明書が渡され、前科と流刑の全てが取り消されると書いてあった。が、赤羽さんは日本のパスポートがもらえず、無国籍者としての居住証明書だけが渡された。役所では肉親の書いた身柄取引状を要求され、困った赤羽さんは本籍地の長野にいる叔父さんに手紙を書いた。長い待ち時間の後、195527日の朝、スターリンの死後2年たってから、待ちに待った赤羽さんの帰国命令が出た。アンナ女史の暖かな別れ、そして馬場さんと一緒に日本に帰れる喜びの中で、赤羽さんは皆に別れを告げ、馬橇に乗った。

そして、5年前に流刑囚として運ばれたクラスノヤルスク市に、ようやく自由の身となった赤羽さんがいた。尾行もなく、髪をセットすることもかなった。10年のシベリア抑留生活の間、顔にクリームを塗ったことは一度もなかった。興安丸に乗ったのは、19554月。長い旅を終え日本に帰った時、赤羽さんは46歳になっていた。