ラーゲルで結ばれた友情

彼はその後どうしたのか。昭和23年8月にやっと日本に帰った私は、大蔵省に復帰して勤務を始めたわけであるが、何時かは彼に会えないかと考えていた。

ボンの日本大使館に代々大蔵省から出向で行っている書記官がいる。その人に頼んでフリッツの安否、住所を調べてもらったが、何せ、後でわかったことだが、教えてくれた住所から変わっていたし、広いドイツ中を名前だけで探し出すことは至難の業であった。

しかし、昭和40年、一等書記官として大蔵省からボンに出向していた安原正君がどういう伝を辿ってか、フリッツの息子に連絡を取ってくれたのである。

フリッツの一人息子のペーテルは養子に入ってヴィンゲンダーという姓に変わっていた。父フリッツが行方不明と報じられていたからだということであった。フリッツの夫人は戦争中に亡くなっていたので、彼は帰国後にルイズという名の女性と再婚をし、幸福に暮らしてたが、昭和39年9月14日、肺癌で亡くなった。私がジェレネドリスクの病院で彼を見送ってから18年目であった。安原君の調査でフリッツの所在はわかったのは彼の亡くなった1年後、安原君から私に連絡があった時、私は出張でフランクフルトにいた。彼の墓地のあるブレーフェンという町は、デェッセルドルフの東北約100キロメートルのところにあるという。予定を変更してフランクフルトからデェッセルドルフまでの約600キロのアウトバーンを突っ走ることにした。ベンツは170-180キロで走る。速度制限のないアウトバーンを車間距離を縮めて走る車は怖いようであったが、馴れると爽快ですらあったし、生きてフリッツに会えるわけでもないのに一刻も早くブレーフェンに着きたい思いであった。

ブレーフェンに着いたものの、彼の墓地がどこにあるかわからなかったので、私達は市役所を訪れることにした。助役らしい中年の男性がカトリックかプロテスタントかと聞く。はて、よくわからないが、彼ならカトリックではないかと答えると、場所を教えてくれたが、墓地は広く彼の眠っている場所はわからない。

こういう時は花屋を訪ねるにかぎると墓地の正門前の花屋に行ったらすぐにわかった。

フリッツ・ハァベアマスと記された墓石は汚れて花一つなかった。そこで、花屋で低い花本と花を求め、墓を掃除してから花本を植え、花束を捧げて手を合わせた。彼がここに眠り、こういう形でしか再会できなかったことを思うと、再会の喜びは消えて、胸の中を熱い涙が流れるような思いであった。

フリッツの息子も奥さんもブレーフェンからかなり離れた所に住んでいた。私がブレーフェンを訪れた後、フリッツの後妻ルイゼ・ハァベアマスさんから手紙をいただいた。

彼は、いつもソ連抑留時代一緒だった私のことを話していたし、私が差し上げた仏像は死ぬ時までお守りとして身近に置いていたし、彼の亡くなった後は、彼を偲ぶ一番の形見として大切にしていると記されてあった。

彼の息子のペーテルにフリッツから教えられ、いつも一緒に歌っていた「故郷で(”In meiner heimat”)」という歌のことを覚えている歌詞とともに書き送ったところ、彼から歌譜を贈ってきた。随分探してやっと見つけたということであった。歌詞はカール・ブッセ、上田敏の翻訳で有名な「山のあなたの空遠く」という懐かしい詩の作者として知られている。

私がフリッツの墓を訪ねてきたことを、墓地の在りかを聞きに立ち寄った役所の人が地方紙「グンウェナー・アンツァイゲル」に話したらしく、ラーゲルで結ばれた友情として早速記事として取り上げられたものをフリッツの旧友ゲァハルト・シュミットが手紙とともに切抜きを送ってくれた。私のことをいつも彼から聞いていたということであった。

もう一度、フリッツの墓参りに来る折があったら、是非知らせてほしい、私もご一緒したいからというルイゼさんやペーテルの願いはまだ果たしていない。一度果たせたらと思っている。

さて、ジェレノドリスクの病院の3ヶ月の間、私はソ連側の調査の通訳(英・日)をやらされていた。ソ連側の調査官の若い中尉の助手としてロシア語と英語の通訳をしていたリーザ・ミハイロブナはちょっと変わった美人の将校であったが、取調官が所用で席を外している時は、いろいろと雑談を交わした。「御一緒に東京の銀座を歩いてみたいですね、いろいろ欲しいものが買えるでしょうしね」などと言っていたことも思い出す。モスコウで発行されている西側のブランド品のカタログなども羨ましそうに眺めていたのは、やはり女性らしく好感がもてた。今頃、彼女はどうしているのだろうかとふと思うこともある。

ジェレノドリスクの3ヶ月は、考えようで至って平穏な抑留期間であった。いつもお腹を空かしていることを除いては、所外作業などなかったし、シェストラと冗談を言い合って笑っているかぎりは、慮囚の身を忘れる一時もあった。