昭和23年8月の復員以来、既に60年余も経ている。まことに往時茫々という言葉のとおり、昔のことを思い出すにしても、なかなか正確なことは思い浮かばないし、また、それらを正確にする努力をしてみても、資料が揃わないので思うようにいかない。
ソ連に抑留されていた人達が随分、記録というか、体験記をものにしているし、その一部を私も読んだけれど、抑留された場所によって、また、その収容所によって、ソ連側の管理体制や環境が違っている点もあって、必ずしも皆が皆同じような体験をしたというわけではない。したがって、どこか1ヶ所の、また誰かの体験を持って、ソ連抑留者の皆が味わった体験だと思うことは間違いがあると思う。私のソ連抑留記というものも、一主計将校がヨーロッパロシアのエラブガという収容所を中心として体験したことについての記録にすぎないと考えていただかなくてはならないと思う。
私は昭和55年以来、ソ連抑留者の全国団体である「全国戦後強制抑留者補償要求推進協議会中央連合会」の会長、財団法人「全国戦後強制抑留者協会」の会長となって現在に至っている。
ソ連抑留者の団体としては、故斉藤藤六郎を会長とする「全国抑留者補償協議会」と草地貞吾を会長とする「朔北会」という2団体があるが、前者はソ連大統領に対して感謝決議をするような団体であり、日本政府に対して抑留補償を求め、裁判を求め、裁判を提起し、最高裁に上告までしたが、敗訴となっている。
抑留者の団体が割れていることは、対外的にもよくないので、私から2団体の統合を申し入れた。その場合、こういう団体の統合に際しては、何よりもお互いに会長が降りて、第3者を会長にするほうが一番よいと主張したが、彼がこれを拒否したので、統合の話は立ち消えとなってしまった。彼がボランティアでなく職業運動家で、その職を失うことはできなかったせいであると思っている。朔北会はソ連政府による受刑者の団体である。
私どもの団体は、ソ連政府が昭和20年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州、北朝鮮、樺太及び千島に侵入するだけではなく、ポツダム宣言に違反し、これらの地域の軍人、軍属や一部民間人もシベリア奥深く運び、きわめて劣悪な条約のもと、強制労働に狩り立て、1割もの死者を生じさせたことを謝罪するとともに、抑留者の賃銀に対する適正な補償を要求してきた。
私達は同時に、日本政府に対しても何らかの慰籍を行うべきことを要求してきた。
以下に述べるように、私達の運動は自由民主党の議員連盟を中心として強力な支援を受け、2回にわたり慰労金品などを支給されてきた。
まだ、中央慰霊碑の建立などいくつもの事業が遺されているが、われわれ抑留者の平均年齢は既に80歳を超え、余命幾許もない状態なので、1日も早く実現を期待している。
ともあれ、ここでわれわれの団体の運動経過をざっと概観してみたい。