汚い貨物船に乗せられたのは11月の初め頃であったか。何トンの船に何人ぐらい乗っていたかはよく思い出せないが、3千トンほどの船ではなかったかと思う。船の異臭が漂う船倉にギッシリ詰め込まれたわれわれは、ゆっくり手足を伸ばして寝ることもできなかった。薄暗い裸電球が標識のように吊り下っている船倉で、単調なエンジンの音を聞きながら、日本海の波に揺られていると、何だか他国へ売られていくような侘しさを覚えた。
船の中での重要問題は、食うことと排泄することとであった。私は、軍司令部の主計将校であったから早速食うほうを担当させられた。経理部の糧秣主任であった牛尾大尉などと炊爨の用意にかかったが、ローリングとピッチングを繰り返す船の甲板の上で、野戦用の車のついた釜を使って米を炊き、汁を作ることは容易でなかった。
第一、車を固定するのに手間がかかった。甲板に5寸釘を打って縄をかけたが、船が揺れると縄がゆるんできた。薪は不自由しなかったが、風と雨で火がなかなかつかなかった。ようやくつけたら、今度は釜の中の水や米が船の揺れでこぼれる。
黒いゴム引きの雨合羽を着て、炊爨に取り組む身は、何だかわれながら哀れであった。やっと炊いた米におかずといっても干明太をそのまま配るくらいであった。後片付けも容易ではなかった。薄ボンヤリと人の顔の見分けがやっとつくような船倉に船の揺れに調子をとりながら戻っていくと、人いきれで吐き気がするような臭いであった。
食材は興南の港で充分積み込んであった。といって、そんなご馳走があるわけではない。米と味噌汁、それに明太の干物ぐらいであった。明太はカサカサに乾いてはいたが、そのまま食べても(噛っても)いいし、油で揚げて塩をふりかけると、それなりにおいしかった。
船には小豆が沢山積み込んであったが、それをダイナマイトで煮て食べることも思いついた。ダイナマイトといっても、主成分のニトログリセリンは常温では液体になっている。舐めると甘く砂糖の代わりとなる。小豆を煮てニトログリセリンを加えお汁粉を作ったのである。興南には日本窒素の大きな工場があって、白金を触媒とし、空中の窒素の固定をしていた。これがニトログリセリンのいわばもとであった、のではないかと思っていた。
「ダモイ・トーキョウ」と言われて船に乗ったわれわれは、当然日本へ向いて走っているものと思っていた。おかしいなと思い始めたのは2日目であった。北斗七星が船の正面か、やや左舷に見えていたのが、右舷に見えるようになった。
「変だな、変だな」と仲間うちの騒ぎ声が段々大きくなってくる。マンドリンを背負っているソ連兵に聞くと「ダモイ・トーキョウ」と繰り返す。日本へなら東へ向けて走らなければならないのに、何故、北斗七星を右にして左へ走るのかと問いつめると、やっとのことで、ソ連の港に寄って燃料を補給し、それから日本へ向かうのだという。われわれは半信半疑であったが、信じたい気持ちはあった。
3日目の朝であったか、朝の光の中にしらじらと見える港にはソ連の軍艦が何隻も浮んでいた。ダモイはやはり嘘であった。ソ連兵の嘘には、これからのべつに接するわけであったが、今思ってみると、ソ連兵がわれわれを騙したわけではなくて、ソ連兵も上から騙されていたのではなかったかと思う。本当のことを言わないのは、社会主義国や共産主義国の特色であると思うが、戦争中の日本政府も、全体主義の固まりで、随分と国民を騙していたのではないかと思う。
ともあれ、白い雪景色の中に浮ぶポシェット軍港の姿は、われわれの望みを打ち砕くのに充分であった。11月初め、重い足を引きずるように上陸した軍港の街は全く厳しい寒さで、粉雪の舞う中を長い行列となって歩き始めたのである。何という名かわからない暗い湖のほとりを荷物で膨れ上ったリュックサックを背負ってトボトボと歩くわれわれに容赦ない北国の風が吹きまとった。
歩き初めは何とかムダ口をきいていたわれわれも、そのうちに言葉も出なくなり、下を向いて冷たい風に身を縮めてただただ歩き続けた。まだ防寒外套や防寒靴も渡されていなかったと思う。初めて踏むシベリアの大地は凍てついて固く、黒かった。
そのうち、誰彼となく物を捨て始めた。まず、重い本や手紙の類を捨て、細々した物を捨て、衣類も捨てるようになったが、後から拾う人も少なかった。ある部隊の副官をしていた某将校は、後生大事に持っていた名簿や功績現認証のような公用文書も捨てた。風に吹かれて薄暗い空にバラバラと舞い上る白い紙の吹雪は、帝国陸軍の最後を物語るように暗示的であった。今も私の眼の底に焼きついて離れない。