雪の行軍の末に着いたところは、小さい藩木が所どころに生えていたクラスキーノという荒野であった。黒茶けた固い地面に杭を打ち込んで天幕を沢山張った。一つで軍司令部の将校30人がそっくりそのまま収容されるだけの大きさがあった。
天幕の中にはダルマストーブが据えられた。いずれもソ連に押収された日本軍のものである。困ったのは燃料であった。泥炭が支給されたが、色の黒い泥のような、草が泥になりかけたような、石炭はこうしてでき上がるんだという途中の標本のようなものであって、煉瓦状に切られていた。石炭のようにカッカと燃えないにしても、暖をとるには充分であった。ただ、何といっても量が足りなかったので、薪拾いということになった。
天幕のまわりに生えている藩木が薪になる。枯れてはいたが、なかなか手が抜けないので、まだ腰に吊っていた軍刀を使うことが多く、「こんなもんに使うなんてなぁ」と言いながら刀を振り回しての自嘲であった。刀は傷がつきやすい。大事に大事にしてきた、古風に言えば「武士の魂」である刀を鉈代りにするなんて、涙のこぼれるような振舞いであったが、これも敗戦というものかと思った。
切った藩木を背負って帰る。ダルマストーブは勢いよく毎日相当な量の藩木を灰にした。やがて天幕の近くに藩木が見あたらなくなる薪拾いをする片道の距離がどんどん伸び、一時間を超すようになっては、いい運動どころか、日ごとに加わるシベリアの寒気とともに大儀になってきた。
ソ連の兵隊に接するようになって数ヶ月を経過すると、彼等の性情、行動などをいくらか理解するようになった。敬礼とか、不動の姿勢とかいったような動作に表される紀律は、わが軍にくらべてなってないように見えた。もっとも、日本の軍隊、とくに内地の部隊は、そんなことばかりやかましく言うようなところがあった。そういう形に表される規律も大事だが、服装とか、敬礼とか、そんなことばかり言っている部隊は、いうなれば閲兵式用のものであって、戦場で通用しないのではないかと思うことがあった。
私は横浜で育ったので、中学生の頃は港を訪れる外国の軍艦をよく見に行った。アメリカの軍艦が多かった。中に入れたこともあるし入れなかったこともあるが、雰囲気は何となく自由で、気ままで、平気の手入れなともいい加減のような感じがした。駆逐艦の水上発射管なども赤錆の上にグリースを塗りたくっているように見え、これでいざという時大丈夫かな、こんなのに日本海軍が負けるわけはないなどと思ったことを思い出す。
ドイツの「ドイッチュラント号」も見に行った。これには、遙かな憧れを感じていただけに、艦は小さいながらいかにも俊敏で、強そうで、乗員もしっかり訓練されているように見えた。戦争の勝敗がそんなことで決められるものでないことは、後になって身をもって体験したことではあるが、感覚的な印象はそのようであった。