われわれはラーゲルの中で暮していたから、一般のソ連人の暮しについては知るところは少ない。若い男は戦争に狩り出され、残っているのは子供と、男と言えば老人と傷病兵で返された者という情況であって、どれだけソ連が大変な消耗戦を闘ってきたかがよくわかるのであった。
どこの国でもそうだと思うが、戦争ともなれば、軍需優先で一般の国民生活は耐乏を強いられなければならない。「欲しがりません、勝つまでは」という標語は日本の津々浦々まで行きわたっていたが、そんな標語をつくるまでもなく、民需は極端に圧縮されたのは明らかである。ガソリンは血の1滴といって、民間にはほとんど配給されなかったし、松の木を削っては松根油の採取に余念がなかった。
ソ連人も生活は楽でないどころか、パンぐらいは何とか手に入るとしても、肉や魚には手が届き難く、砂糖などもマガジンで売っていなかったようである。
ラーゲルの周りを駆け回っている子供達が、「大きくなったら捕虜になるんだ」と言っている。ラーゲルの日本人に肉や砂糖が配給されていることを知って羨ましかったようだ。マガジンは、本当に欲しいものは売っていないが、当面はさほど必要でない床撒き香水のようなものが沢山並んでいた。計画経済の末端に置ける需給ギャップを眼のあたりに見る思いがした。ウォッカなども製造が制限されているためか、マガジンで1リットル100ルーブルというバカ高い値段がつけられていた。われわれは、何とかしてウォッカを手に入れようとして随分と苦心した。
糧秣受領に営門を潜っていく時、シューバの下に水筒を吊るしていき、マガジンのおばさんに預けておく。次に行く時にウォッカを満たした水筒を受け取るという具合であったが、ある時、私たちの仲間の照応が水筒をぶら下げているのを衛兵に見つかって重営倉に入れられた。ろくに食事も与えられないようになっているが、山口君などと計らって、衛兵から預かった鍵のコピーを鍛工場で急造し、その鍵を使ってこっそり、食物を運び込んだこともあった。
どう考えても、生活に余裕があるように思えなかったが、ソ連の女性は20代ぐらいまでは、なかなかスラッとして綺麗な人も多いが、20代を越すと、ブクブク肥り出す。腕なども太く、また、力もあるようで、男並みの作業ができるようであった。シューバの下は、夏同様の薄い服を着て、よく寒くないなと思うが、馴れているのか、皮下脂肪が厚いのか平気な顔で外を歩いている。
丸太を積み上げて壁にしている家が多かったが、窓は2重になっているし、ベーチカで暖められているので、外から見ると綺麗だった。パンやじゃがいもは何とか間に合っていたようだが、肉や魚などは余り手に入らないようであった。
昭和21年の2月、私達一行20人がラーゲルからキズネルの駅まで雪の中を歩かされたが、ある日泊った民家で、夜中にトイレに起きた時、台所で何かビチャビチャと物を食べるような音がするので、何だろうと覗いてみた。すると、何と、私たちが残して棄てた鰊の骨を子供にしゃぶらしているのであった。わずかばかりの肉がついていたのであろう。ああ、魚など、なかなかお目にかかれないのだな、ソ連の人も生活は大変なんだということがよくわかった。その塩漬けの鰊はラーゲルから携行したものであった。
ラジオは有線放送で1チャンネル。もちろんまだテレビがあるわけではない。ラーゲル内に木工場があって、技術中隊が主として所内の建物の補修などを担当していたが、管理局の将校などに頼まれてタンスや椅子なども作っていた。無論、私用のものであった。