1. 日本人のシベリア抑留―要約

スターリン時代のソ連では、40年近くの間何百万人ものソビエト国民が、秘密警察の告発により、単に労働力確保のために収容所に送られて強制労働を課せられた。それは、ソルジェニーツンの「収容所群島」に詳しい。またソ連は1941-1945の五年間の独ソ戦で2500万もの膨大な自国の犠牲者を出した上、国土が荒廃し、経済が疲弊したので、国の復興のための新しい労働力の必要に迫られて、300万人のドイツ人捕虜を強制収容所送りとした。

第二次世界大戦終了後1945-1956年の間、60万人と言われる日本人がシベリアに拉致され、苦しい抑留の日々を送った事実は今も世界ではあまり知られていない。様々な背景から、日本の国内でも帰還者の長い沈黙が続いたことが要因となっているが、これもまたソ連による「収容所群島」の歴史の一環であった。オーストリアの研究者シュテファンカルナーは、1941-1956年の間にソ連に抑留された捕虜、民間人の総数は約500 万人と推定している。

1945815日、天皇の玉音放送によって日本の敗戦が知らされた。その時北朝鮮、満州にいた日本軍将兵は、ポツダム宣言の内容通り、帰国できると信じていた。一方、日ソ間では1941年に日ソ中立条約が調印され、「両国の平和友好関係の維持と一方の国が第三国と戦う場合、他方は中立を守る」という了解事項があった。

それに先駆けて1945717日、ベルリン郊外で米英ソ三国首脳によるポツダム会談が開かれたが、26日の共同声明ではスターリンの名は外されて、アメリカ、イギリス、中華民国の三国によるポツダム宣言が発表された。日本は無条件降伏を迫られた。その返事を待つ間、86日、アメリカは広島に世界初の原子爆弾を投下。87日にはソ連のスターリンはワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に89日零時に日本に対して攻撃を開始するように命じた。ソ連にとって日ソ中立条約はもはや眼中にはなかった。

日本時間8月9日、ソ連は満州、朝鮮に侵攻。戦闘状態となった中で、関東軍司令部と満州国政府機関は新京から朝鮮国境に近い通化へと移動した。これに伴い満州国の皇帝は退位し、1932年より日本の傀儡(かいらい)国家(名目上は独立していたが事実上は日本によって統治されていた)として栄えた満州国は終焉を迎えた。そこには150万人の日本人居住者がいた。日本の国家の制度として、日本の内地から満州の開拓民として送り出された16歳から19歳の青少年の集まりであった「満蒙開拓青少年義勇軍」もその中にいた。ソビエト兵が満州に侵入した時、彼らを含む多くの満州在住の民間人の男性もがソ連兵によりシベリアへと連行された。残された女性や子供たちは、敗戦という事態の中で頼る命令系統を失い、何にも守られない中で略奪や暴力にあいながら、生きて日本に帰るための逃避行が始まった。ソ連軍は更に樺太、択捉、国後島などの南千島(北方領土)にも上陸し、その戦いによって北方の多くの日本人一般住民も犠牲になった。スターリンは、後の声明で、ソ連による樺太、千島の占領は日露戦争(1904-5)への復讐であることを明かした。

慣れないシベリアでの収容所生活は想像を絶するものだった。飢餓地獄による栄養失調とそれによる精神破壊、日々厳しいノルマを突きつけられ、それが達成できなければわずかな食べ物を減らされる強制労働。そして零下30-50度の酷寒。このような飢餓、強制労働、酷寒は「シベリアの三重苦」と呼ばれた。労働はあらゆる種類に及び、水力発電、役所や家屋、劇場の建設、石炭生産労働の一切、命をかけての雪原での樹木の伐採と運搬、農作業等。その絶え間ない労働に与えられた食料は一日にたった一枚の黒パンとキャベツが僅かに浮かんだ塩辛いスープだけだった。空腹の中を人々は死にものぐるいで野や山で食べ物を探し、落ちていたジャガイモのかけらも拾って食べた。栄養失調は病気、餓死へと至る道だった。その中で旧軍隊の序列はそのまま利用されていたので、あまり働かなかった上司が毎日疲労困憊するまで働かされていた一般の兵士級の人達の僅かな食べ物の分配を同等に受けるなどの不公平がまかり通った。米と味噌汁に慣れた日本人にロシアの食べ物は向かなかったし、温暖な気候に育った日本人の体にはシベリアの冬はあまりに過酷で、約62千人と言われている死亡者の約80%5万人が初めの年、1945年から46年の冬に集中した。旧日本軍の用意した衣類では、シベリアの猛烈な寒さを超えるのは難しかった。

第二次世界大戦が終わった時、一市民として日本の家族の元へ戻る希望に満ちていた日本人の多くが、こうして無念の命を奪われた。日本で父、夫、兄の帰国を待ちわびる側にも、抑留は暗い影を落とした。敗戦後の困窮の中、家庭の大黒柱の生死さえわからぬまま、ただただ無事の帰国を待ち続けた家族達。手紙のやり取りは稀であった。過酷な運命をたどったシベリア抑留者。ようやく祖国へ帰れると思って乗せられた車両や船で、行く先は日本ではなく北へ北へと運ばれていたことに気づいた時、帰国の喜びは一瞬の内に悪夢へと変わったのだった。

この日本人の抑留の歴史の中で何が起きたのかを知るのは、その時代に翻弄された一つ一つの命の尊さに思いを馳せるという大切な作業である。人は生まれてくる時代や場所を選べない。そして人間の苦渋の体験が繰り返されないという保証はない。権力の衝突による戦争の犠牲者は弱者であり、彼らは選択の余地を与えらない。世界のどこかで今も戦禍の絶えない現在、これら抑留者と似た境遇に置かれている人達が今もどこかにいる。自分や自国の利益や繁栄だけを求めるのではなく、人間の性をしっかりと見つめて、人類全体の平和を模索する静かな思いを少しづつ広げて行きたい。