「ダ・スピダーニャ」

カザンの2ヶ月は短いようで長かった。そんなある日の夜、突然、明朝カザンを出発するという。ソ連軍の命令には予告編はない。もっとも、私達に対して突然であるだけではなく、彼等ソ連軍の兵隊達に対しても突然であるらしい。軍の行動というのは機密を要するから、そういうことは何処の国でも当たり前と言ってしまえばそれまでであるが。現に、私達の軍事司令部が漢口を離れる時、ハルピンに行くと言われていたのに、途中北京で北朝鮮に行くことをはじめて知らされたようなものである。

いずれにしても、カザンを出発するという命令だけはあったが、さて、何処へ行くかということは例によってわからない。「ダモイ」だ、「ダモイ」とマンドリンを抱えたソ連の兵隊はいうが、今まで何べん騙されてきたことか。また、騙されるのかと思いながら、かすかに、ひょっとしたら本当に故国に帰るのかもしれないという希望の明かりが灯るような気がしたのは、悲しい捕虜の性とも言えよう。

カザンの収容所は新しいものであったが、600人も詰め込まれて、窮屈なことがエラブガと一緒であった。明日出発するとなると、何も仕度をするものはなくても、気持ちのうえでは慌ただしい。荷物といっても、リュックサック一つに入ってしまう。

ソ連に抑留されるまでは、身の回りのいろいろなものが必需品だと思っていたが、収容所に入り、あちこち移動で運ばれる間に、本当に必要なものは、裏に毛のついたシューバと軍服上下、靴、靴下のほかは飯盒とスプーン程度しかないということがわかってきた。チリ紙すら、あればよいが、なくてもこと足りるのであった。

ソ連の兵隊はチリ紙など使わない。大きいほうをすませても、そのままズボン下をはくのである。パンツもしていない。日本人はきれい好きだから、その真似はできなかったから、わずかに手に入る新聞紙などを使った。それも手に入らないときは、便所の屋根に葺いてある藁をむしって、手で柔らかくし、それを使った。うまくいかないと汚物が手につく。それはその辺の柱かどこかに擦っておくのだった。

堕ちるところまで堕ちてしまえば、気が楽になるのであって、食べるものだって、口に入るものは何でもよいということになる。畑仕事に行って野鼠を捕まえて生で食べるものもいる。蛇などは栄養がつくというので、見逃されはしなかった。

リュックサックは中支から後生大事に運んできた軍服で作ったから生地は上等である。これを針1本で時間をかけて縫い上げるのである。肩に当たるところは、縫製工場で皮のきれ端などをもらってきて、細工をする。器用な人は、注文を受けていくつも製作をしてパンなどの報酬を得ていた。ここでも「芸は身を助く」の諺は生きていた。

カザンの収容所がダモイだと大騒ぎしている晩の八時頃、クロイツェル中尉がお呼びだという。収容所の外れに、ソ連軍の事務所がある。その1室に招じ入れられると、女史がテーブルの向こうに座っていた。例によって、度の強い眼鏡のガラスの向こうから、丸い眼を光らせながら、私に椅子にかけるようにと言う。

室内はガランとして花一つない。クロイツェル女史は言う。「明日あなた方は日本のほうへ向けて出発する。あなたは反動の第一人者であるけれども、特に帰してあげることにした」と言ってニヤッとした。「調査で、あなたの言っていることが本当だということもわかったから嫌疑も晴れた。私は、ここでの任務が一応終わったから、明日は東ドイツに向けて出発する。もうこれでお会いできないと思うが、元気でダモイできますように祈っている」ということであった。

私は、女子の好意をこの時ほど強く感じたことはなかった。今までも何処へ連れて行くにも行方を言わないか、言っても嘘をつくのが当たり前のようなソ連の兵隊ばかりであったのに、女子は、はっきり「ダモイ」を言い、また尋ねもしないのに東ドイツに行くということまで私に知らせてくれたのであった。私は、ソ連抑留以来3年の間、すっかり忘れてしまっていた人の情けに初めて触れた思いがした。思わず涙が滲んできたが、言葉にはならず、ただ何度も頭をさげるばかりであった。

女史は細い手を(太い腕の割りに手の指は細かった)差し伸べた。「ダ・スビダーニャ」(「また会うまで」ということ。サヨナラの意)とお互いに言い合いながら、固い握手をしてその部屋を離れたが、再び会う日はないのだろうということはお互いによくわかっていた。

翌日カザンを出発した貨物列車の棚にゴロ寝をして揺られながら、改めて女史の好意を噛みしめていた。反動の第一人者というのは冗談であって、女史は、私にかけられた疑いを晴らすのに努力をしてくれたに違いなかった。

シベリア鉄道の長い旅が始まった。往きと同じように20数日かかった長い旅であったが、ダモイの喜びがあるかぎり心は晴れていた。もっとも、疑い深くなりすぎていた私達が本当にダモイを信じることができたのは、ナホトカで永徳丸に乗船した時ではなく、永徳丸が舞鶴に着いて下船し、日本の土地をしっかと踏んだ時であった。

クロイツェル女史が、その後どうしているか、知る由もない。また、仮に探しうるにしても、そのことが女史に何らかの迷惑をかけるかもしれないと気を遣うのは、何といっても相手がソ連だからである。女史は、ある意味に置いて私の恩人である。そのことはどうしても記しておきたかった。