ソヴィエトの崩壊

私は、ソ連の社会主義体制が、はたしていつまでもつのだろうかという疑問をかねてからもっていたことは事実であった。すでに出版した『タタアルの森から』(平成四年刊、米子書店)のうち、同名の短編のなかで主人公の「登」の口を借り、こういう人間性に反した経済組織に生産性を高める要素はないのであって、いずれダメになるという予感をしゃべらせているが、その予感は現実のものとなった。

とにかく、領土が広すぎるというのも困ることがあるもので、東西の時差が旧ソ連の領土で12時間、ロシア共和国の領土で10時間もあるという。パリ~モスコウが3時間、モスコウ~東京が9時間ということからして変だなと思って調べたら、たしかに北極圏に近いロシアの北辺では嘘ではないことがわかった。これはえらいことであって、それだけ時差があると、何をするにも連絡がうまくいかないのではないかという気がする。

農業についていえば、コルホーズ、ソホーズという集団・国営農場体制で、農業生産が伸びていくとはとても思えないことは、われわれがノルマで働かされた経験から明らかである。もちろん、ノルマを達成すればそれなりの報酬があることはわかっているが、労働の質を評価する制度がないので、時間さえ経てばいいという格好になりかねない。

また、食料品にしても、すべて目方で処理されるから、旨かろうとまずかろうと量があればいいということが平然と行なわれてたのである。良質なものを作ろうという意欲が涌くわけはない。農林水産物にかぎらず、工場の生産品についても同様であった。数が揃えばいいとなって、不良品が充分にチェックされない。部品がそういう状況であるから、その部品を使って作った製品にできの悪いものが混じるのは避けられない。

あんなソ連がどうして宇宙衛星などを打ち上げられるのか、不思議でならないが、どうも、多勢の中には突出した人材がいないわけではなく、それをある分野に集中的に使えば、相当のことができるということかとも思う。もっとも、チェルノブイリの原発事故でよくわかったことであるが、時にその不完全さが自国のみならず、世界中にも迷惑をかけることがあるのである。

もう一つ重大なことは、計画経済の非生産性・非合理性である。国民のあらゆる物資、労働に対する需要を予測し、それに応ずる生産・分野を計画的に行なう。逆にいえば、生産に応じて末端までの需要に適合する分配を行なうことは実際問題として不可能といわざるをえない。

何をあげよう、私が、ソ連にいた頃、町のマガジン(小売店)には床撒き香水の瓶が山ほど並んでいるのに、パンやバターは姿も見えない。高く買ってくれる小麦は国に供出して、豚の餌にも安いパンを買うという変ちくりんなことが平然と行なわれている。

資本主義というか、自由経済の下では、原則として、物の需給は価格で調整される。ある物の供給が不足すれば価格が上がる。価格が上がれば、生産が増え、生産が増えれば、価格が下がる、価格が下がれば供給が減る、供給が減れば価格は上がる。というように、需給の調整は価格を媒介として行なわれるため、価格の変動がキーとなっている。

計画経済の社会においては、物の価格は概ね一方的に決められる。公定価格、配給価格である。これは、原価計算に基づき、他の要因を加味して決定されるにしても、価格が固定されるために、自由経済で価格の果している需給調整の役割が全く失われている。そこが問題なのである。

ソ連が第2次大戦において、いろいろな面において猛烈な消耗を甘受せざるをえなかったことは事実であろうし、また2千万人といわれる兵力の犠牲によって、特に農村ではまともに働ける若い男の姿は珍しいくらいの状態になっていた。

それはわれわれにもよくわかった。街を歩いている男は、軍服を着ていなければ、老人か身障者であった。60万人という日本軍の将兵を彼らの言う5ヶ年計画に協力させようという気になったのも無理もないと思ったくらいである。

いずれにしても、ソ連はおよそ発展を約束しえない経済体制のもとに崩壊したのであって、壮大な実験は全く失敗したと言わざるをえなかった。

いい思い出のないソ連には再び行きたいという気はなかなか起らなかった。引揚げて何年かの間、再びソ連に拉致される夢を見て、水を浴びたように冷汗をかいて目が覚めた夜も何回かあった。心が凍りつくような嫌な夢であった。大蔵省での勤務はほとんど主計局であったので、ソ連に行くチャンスもなかった。どうなっているのだろうという関心は絶えずもっていた。