あとがき

ソ連抑留記を書こうと思い立ったのは、昭和23年8月、3年のソ連抑留生活から解放されて間もなくであったが、当時、日本は連合軍の軍政下にあったし、主計局の予算査定で忙しい日々を送っていたこともあって果せず、フィクションの『タタアルの森から』という抑留者とロシア娘との恋物語を手紙の形式で綴った短編を中心として、いくつかの短編を集めて同じく『タタアルの森から』という題目で平成4年に刊行した。

この度、その後しばらく書き溜めていたノン・フィクションの抑留記をまとめ、上梓することにした。もっと書きたいところもあったが、余り長くなってもと思い、このへんで仕舞うことにした。

モスコウへは毎年9月頃、日ロシンポジュウムを兼ねて出かけることにしている。ロシアの外務省、内務省、軍事省などの担当官に会って、主として抑留者に関する日ロ協定の履行を関係団体の運動として要請を続けている。

抑留者、特に死亡者の名簿の提出にしても、墓地の管理にしても、協定に定められた事項を誠意を持って果たしてくれないロシア側に対しては、黙っているわけには参らないからである。

われわれの、モスコウでの活動によって、抑留者全員の個人ファイルのコピー(マイクロフィルム)をもらえるようになった。これも平成9年にモスコウに行った時、軍事中央史料館の中にドイツ軍将兵の厖大なファイル(200万人分と言っていた)とともに存在しているのを見せられ、コピーを要求してからことが運んだのであった。

当初、ロシア側は、人手がない、機械もない、手間賃も出せないと言っていたのを、日本側が経費を負担すると言って実現することになった。厚生省の予算からであった、呆れたことは、その時、ロシア側が、ちょうどいいから自分たちの分のマイクロフィルムもつくってくれと言い出したことであって、泣く子と地頭という思いで、これも予算化してもらった。

墓地の維持管理が全くよくなかったので、遺骨を収集して、日本に持ち帰ることにしたら、後に慰霊碑を建てる話がもち上がってきた。これも私達が外務省と交渉して、抑留者の主な埋葬地約30ヶ所に慰霊碑を建てることにした。この経費も日本側が負担することとして、一ヶ所あたり250万円を予定することにした。

私どものいたエラブガに第一号を建て、碑銘も私が筆を執ったが、現地の地方団体との交渉が手間取っていて、既に建立したのが9ヶ所、残りはまだ交渉中という状態である。関係者がいなくなったら、こういう事業も打ち棄てられてしまうのではないかという概念もあって、気が焦っているが、何分相手が相手だけに思うようにならない。あとは力のかぎりを尽すだけだと思っている。

ロシアは変わった。特にモスコウの変わりようは激しい。一昨年の9月、モスコウに行った時は、プチ・ラスベガスと呼ばれていたカジノ街が出現して、派手なイルミネーションで街を賑わしていたが、去年9月に行った時は、プーチンがカジノを禁止したというので、全く見えなくなっていた。

街にはベンツが走り回り、西欧のブランド品の店が軒を並べていた。ヨーロッパで高級なベンツが一番よく売れるのがモスコウであるという。とんでもない大金持ちが出現しているというが、帝政時代、ソ連時代と今日を通じて、ひと握りの人達が大変いい目をみているこの国の体質は全く変わっていないな、と、ふと思うことがある。

かつては、赤い眼をした魚がショボッと並んでいたような市場や店も、今や商品で溢れ返っている。チョコレートなんかのあることあること。

オイルの暴騰は産油国ロシアにもはなはだ大きな収入をもたらしているようで、心なしか、各省の役人の態度もひと頃よりは頭が高くなっているように思うのは、いささかこちらの僻みかもしれないが、やはり懐が暖かくなると、大きな顔をしたくなるのは、人も国もいっしょかな、と思ったりする。

ロシアの国の収入も増えているのだから、まさにこういう際にこそ、われわれの賃銀も支払ってくれたっていいのじゃないか、と言ったら外務省の高官は苦笑いをしていた。

ともあれ、この抑留記の出版に際しては、ぶんか社の甲斐社長、角谷さんはじめ、皆様に大変お世話になったし、とくに校正などで親身に面倒をみてくださった皆さんには厚くお礼を申し上げたい。

平成22年1月吉日