終戦となったが、しばらくはソ連兵の姿も見なかったから、この先どうなるか不安ながらも、平常に近い生活であった。
ソ連軍が入ってきたのは、8月15日から1週間以上も経っていた。うす汚れた兵隊を満載した大型トラックや戦車、装甲車、自走砲などの機械化部隊が次から次へと街に入ってきて、みるみるうちに軍司令部のあった小学校の校庭を占拠した。歩いている兵隊などはいなかった。日本軍とは大違いであった。
不思議なことに、兵隊のなかには、10人に一人くらいの割合で女が混じっていた。男の兵隊と同じような格好であったが、身体つきなどで女とわかった。われわれは、ソ連は対独戦などで何千、何百万人もの兵隊を喪ったというから、その補充ではないかなどと噂をし合った。
軍司令官のいた建物で、ソ連軍のイヴァン・チスチャコフ大将と夜遅くまで会談が行われていた。われわれは、会談の行われている部屋の窓の明かりを不安な気持ちで眺めていた。一両日の後ではなかったか。命令が下って、われわれは、ソ連側に武器、弾薬、被服、物品、糧秣等一切を目録を添えて引き渡すことになった。私は、被服と物品の主任将校であったから、早速部下の下士官を督励し、被服、物品の保有数量を調べさせた。
しかし、どうせソ連側に引き渡してしまうなら地方人(一般の民間人)にくれてやったほうがましだというので、経理部のいる小学校の窓から、何処からか乗ってきた大勢の朝鮮人に、軍服、下着、軍靴、巻脚絆、敷布などを手当たり次第に投げてやった。群衆は歓声をあげて品物を奪い合い、まるで建前の時の餅撒きのようで、われわれにはせめてもの憂さ晴しになった。
そんなことをしたので、被服、物品の保有数量も容易なことでは把握できない。倉庫にいる下士官にやっと連絡を取ると、倉庫にも人がたくさん押しかけているという。私達は、正確な数量を把握することを諦めた。しかし、あまりにもいい加減な数字を出して、日本軍隊の規律のなさをソ連軍に嗤われても嫌だ。そんな見栄もあった。負けてしまって、つまらないことにこだわるバカはない、と今なら言えるかもしれないが、その当時は、まだまだ軍人の精神であった。
ともかくも被服、物品のリストを作って、参謀部に差し出した頃はもう夕方近くになっていた。できるだけ正確にしたつもりであったが、次第に民衆の略奪が広がっていたので、時々刻々と在庫数量が減っていくのは、どうしようもなかった。
小学校の校庭は、戦車、装甲車、自走砲などで埋まっていた。迷彩を施したこれらの兵器は埃にまみれ、日の傾いて行く夏の夕景の中にあって、まことに威圧的であった。大砲に弾丸もないようなわが軍などは、闘ったらひとたまりもなかったなと皆で話し合った。
小学校の便所は木造の長い渡り廊下で校舎に繋がっていた。われわれは2階の経理部の部屋(もちろん教室)にいた。渡り廊下を通って便所に行った兵隊の何人かがソ連兵のマンドリン(自動小銃)で打たれて死んだという噂がたちまち拡がった。そういえば、さっき聞こえた銃声はそうだったのか。おそらく、言葉が通じなかったために誤解を受けたか、逃げ出す途中を打たれたか、それはわからなかったか、経理部内も騒然とした悲壮な空気に押し包まれてきた。
我慢しきれないで便所に立った私は、渡り廊下の途中に血を流してうつ向けに倒れている兵隊を見た。死んでいるに違いない。身動き一つしなかった。私は、やっとの思いでその身体を跨いで便所に行った。小用を足して、帰る時にまた跨いだが、立ち番のソ連兵がマンドリンを構えてニヤリとしているのを見ると、急に恐怖心が募って、2階の経理部の部屋に駆け込んだ。もう、誰も彼も、自分の身一つのことを考えていて、自分さえ助かればよいというような雰囲気になっていた。死んだ兵隊のことは、気の毒に思っても、誰もその死骸を片付けようともしなかった。
2階の一角には通信部の部屋があって、あちこちと無線で連絡をとり合っていたが、もうどうともなるわけのものでもなかった。5時前だったか、通信部から善哉を食いにこないかという連絡もあった。覗いて見ると、部屋の中で薪を燃し、ありったけの砂糖をぶち込んで小豆を煮ていた。あの豆を煮る臭いが煙と一緒に窓の外へ流れていた。
年老いた下士官が「何もかも終わりだな」とポツンとつぶやいた。髭が伸びていた。われわれは、黙って善哉をすすったが、何ともいえぬ濃い甘さであった。