すし詰めのシベリア横断

高校時代に読んだアントン・チェホフの小説に『シベリアの旅』という作品があった。どんな内容であったか思い出せないが、当時の私は、ある時期ロシア物に熱中していた。

ツルゲーニェフに始まったような気がするが、彼の全作品を読んだ。渇いた砂が水を吸い取るような小説の読み方をしていた頃のことであったから、読み始めたら学校の授業も何もなくて、夜は夜で寮の読書室で2時でも3時でも起きて本を読んでいた。

ツルゲーニェフの次はトルストイ、ドストイェフスキー、チェホフ、プーシキン、ゴーゴリ、ゴリキー、ショーロホフなどと次々に呼んでいったが、トルストイの『復活』に出てくるシベリアの春の雪解けの頃の描写は本当に素晴らしかった。

シベリアというと、何よりも先ず荒涼とした不毛の広野が眼に浮んでくる。ウラジオストックからモスコウまでのシベリア鉄道は、特急列車でまる1 週間はかかると聞いていた。想像を絶する空間の広さであった。その広い広いシベリアを貨物列車に乗せられて西へ西へを送るようになろうとは、一度だって考えたことはない。当り前である。

クラスキーノの天幕生活は11月で終り、われわれは12月の4日か5日には貨物列車に詰め込まれていた。ソ連兵は、もう「ダモイ・トーキョウ」などと言ってわれわれを騙すようなことはしなかった。北朝鮮ではわれわれが逃亡する危険性が大きいと思っていたので、そう言っていたのだろう。事実、われわれは何故あの時に脱走をしなかったかと今思ってみれば本当に不思議なくらいである。そうだ、もし、われわれが北朝鮮からソ連領土内に送られるということを感づいていたなら、おそらくみんな脱走を企てたに違いあるまいと思う。

騙してソ連の領土内に運び込んでしまえば、もうこっちのものと思ったのだろうか。脱走しようにも、とても不可能だろうし、そんな勇気はもてなかった。

われわれは、貨物列車に乗せられた時は、何処へ送られるのか知らされてはいなかったが、日本に帰してくれるとは誰も思っていなかった。逆にソ連の兵隊がわれわれに「ダモイ・トーキョウ・ダー?」などと尋ねることもあったが、「何の、この嘘つき奴」と腹が立つばかりで、顔は「ダー・ダー」とお愛想笑いはしても、眼もとが全然笑えない、自分でもわかる険しさであった。

シベリア鉄道の貨物列車は百輌以上も連結していて、大きな蒸気機関車が重連または三重連で牽く。まことに壮観であった。200 輌以上牽いていた列車もあったのではないかと思う。機関車はよく見ると大ていアメリカ製でシカゴで造られたものが多かった。これも戦争中の援ソ物資だったのであろうか。

もともと、シベリア鉄道はロシアの極東進出の野望に支えられ敷設されたものであるが、モスコウからウラジオストックまで全長9297キロで全線開通は大正5年であった。そのレールは各国製の寄せ集めで、百何十種かの会社の製品が見られるということをものの本で読んだことがある。停車する時注意して見たら、たしかに種々雑多な会社のマークが入っていた。レールの重量も何種類かになっているという話であった。

援ソルートといえば、戦争中のアメリカのソ連への物資援助はまことに広範かつ厖大なものであったと聞く。ドイツとの国を賭しての戦争を支えていたものは、アメリカの物量であったといっても過言ではないと思う。

事実、機関車だけではない。飛行機もトラックも、兵器から食糧などに至るまでアメリカの製品が氾濫していた。シベリア鉄道に23日間も揺られていたわけであるが、この間支給された食糧は、小麦や肉はシカゴから、砂糖はキューバからという具合で、援ソ物資であることは明らかであった。

われわれは貨車の中にギューギューに詰め込まれた。貨車の前後を木の板で棚を吊って2段に分け、それぞれにすし詰めになって寝るのである。いや、折りに詰めた「すし」は並んでいて、重なり合うことはないが、この貨車はみんなが横になると入り切れないので、あのオイル・サーディンの缶詰のように頭と足を交互にし、お互いに半身になって重なり合って寝るしかなかった。

貨車の中央部にはダルマストーブが置かれ、煙突は伸びて貨車の外に出ていた。石炭は配給があったがとても足りなかった。石炭の欠乏は致命的であった。真冬の寒さがわれわれを襲ってきたし、列車が走ると隙間風は遠慮会釈なく入り込んできた。

しかし、窮すれば通ずと言うが、そこは自ずから道が開かれている。列車が駅に停まると、バラバラと飛び下りたわれわれは機関車用の石炭置場にバケツを下げて走るのである。山のように積んである石炭から、1杯、2杯掬っても大したことはない。ソ連のコンヴォイ(看視兵)も黙って見ているだけではなく、われわれをけしかけさえする。お蔭で石炭だけはそれほど不自由しないようになった。

もっとも、列車の走り方も大陸的であった。普通は2、3時間も走れば停車をするのだが、半日も走り続けることがあった。そういう時には、石炭を手に入れることができなかった。