北緯55度の収容所

エラブガのラーゲルは北緯55度の位置にあった。

クラスキーノから延々23日間も貨車で西へ西へと運ばれて行く途中、ハバロフスクの駅で零下55度を体験した。寒いというより、顔中が痛いという感じで、まつげや鼻毛はおろか、眼の球まで氷るような気がした。駅に下車して食糧の配分中、ちょっと手袋を外したら途端に左手の小指が白く凍って感覚がなくなった。火などで暖めてはいけない。手を雪で揉むこと小一時間、やっと感覚が戻って凍傷にならずにすんだことを、その後も長く恐怖感をもって思い起こした。

北緯55度の冬は長い。9月の終わり頃の雪で始まり、翌年の5月頃までは冬である。冬至の頃は、朝の11頃に陽が昇り、3時頃には地平線の彼方に沈んだ。東の空を低い弧を描いてスーッと消える。

それから一体どれくらいここに住むのかな、またどこかへ移されるのではないかと思ったり、考えても仕方ないことではあったが、食べることしか念頭にない状態では、そんなことでも考えているより仕方がなかった。

Aラーゲルは周りが一寸開けた森の中にあった。ここもドイツ軍将校の先住民族がいて、2階建ての兵舎が何棟か立ち並んでいた。

この兵舎はいくつかの部屋に分かれていて、部屋には壁に沿ってぐるりと木の2段ベッドが作られていた。ベッドといっても蚕棚のようなもので、そこへ寿司詰めに寝るところは貨物列車の中と少しも変わりがなかった。空いているところには木のテーブルがあって、六尺腰掛けが置かれていたが、到底全員が座るだけのスペースはなかった。ベッドの下段が椅子の代わりをもした。

困ったのは夜の明かりであった。電灯がついていないので、日が暮れると雪明かりだけであったが、部屋のうちにはそれも及ばず、鼻をつままれてもわからない暗さであった。必要は発明の母というが、間もなく考えた明かりは木片を灯すことであった。

木片といっても太いものはダメだから、ペーチカ用の薪をちょうど割箸ほどの太さに割ってペーチカの上で良く乾かし、これにマッチで火をつけると、何分間か、便所を往復できるくらいの明るさとなった。最も、廊下にはかすかな電灯がついていた。

Aラーゲルの最初の頃の食事は特に酷かった。体重を計ってみると、2、3ヶ月の間に平均して、10キロは痩せた。痩せた身体に力仕事は堪えた。

私は、大学を出て軍隊に入った頃は60キロほどで、経理学校の厳しい訓練を受けた後でも60キロを割ったことはない。北京の方面軍司令部勤務の頃は70キロ近かったと思うが、中支に転勤し、咸寧の旅団司令部の経理勤務班長をしていた時は酷いマラリアにかかって50キロ台となり、旅団長にユーレイなどという綽名をつけられたこともあった。

それが、漢口の軍司令部勤務になった頃は毎晩かなりの大酒をしていて、60キロ台で推移していた、70キロに近かったかもしれない。

その私が、エラブガに収容されてからは、皆と同様に体重が減って60キロを割るようになった。若かったから毎日の労働にも耐えられたのだと思う。