カザンで大統領と面会

もう二度と来ることはないかと思うと心残りはあったが、カザンで大統領との面会の時間があったので車に乗った。とにかく、食事と思うが、食堂も食べ物を売っているところも見あたらない。

ボロ車を走らせていると、銀行の出張所があるというので入ったが、ドルからルーブルへの両替はできないという。都会はドルが堂々と使えた(というより、骨董屋ではドルでなければ売らないという)が、田舎ではドルではダメだという。ドルはルーブルに替えなければならない。その両替ができないとあって、呆れて再び車の中へ。

また、ドロ道を走っていく途中に両替屋があった。変な建物の壁に穴が開いていて、そこへ手を突っ込んでドル札を入れるとルーブルにしてくれる。300ドルを出したが、8600ルーブルという。全然歩が悪いが仕方がない。ヤミの両替屋ではないかね。

しかし、やっとルーブルを手に入れたので、それからしばらく走ったら見つかった簡易食堂で食物を口に入れることができた。スープ1杯とピロシキ2ヶで息をついた。430ルーブルであった。安いことは安い。味は空腹もあってか不味いことはなかった。

カザンに3時頃着く。カザンの駅舎は昔の姿が思い出せないが、大して立派ではないからそのままかもしれない。50年前の平屋建てのその駅舎を重いリュックサックを背負ってトボトボと出た時のことを思い出すと感無量であった。

ボルガ河の河駅も見た。ここもかつて来たところであるが、昔の姿は全く思い出せない。立派な建物に大勢の人が出入りしている。河には遊覧船が何隻も走っていた。昔は白い外輪船が走っていたが、遊覧船は見かけたことがなかった。

ボルガ河は昔のままに洋々と流れて、広い河幅であった。カザンの街には古い家並みも残っていたし、教会堂もいくつか見えた。市内の電車も昔ながらの軌条のものもタイヤのトロリー車もあった。

もう一つ記憶が甦ったのは、カザンで野宿しているある日、近所の写真屋に飛び込んで、1時間で早撮り写真をつくってもらったことである。手札の4枚で20ルーブルしたのではなかったか、今も手元に持っている。本当に囚人のような暗い顔をしているが、自分の顔写真を撮って帰ってきた抑留者はほとんどいないのではないかと大事にしている。

カザンで4ヶ月独房に押し込められていた監獄を探したが見つけられなかった。

50年の昔、カザンの町にはジプシーの群れをいく組も見かけた。馬車といっしょに特異な姿をしているのですぐわかった。ヨーロッパの他の国でもジプシーの群れを見ることがなかったが、今のロシアもそうではないかと思った。さすらいの民はどこへ消えてしまったのだろう。3時にタタアルの政庁に行った。大統領に会う。髪はアマ色、眼は青く、タタアル人だというが、そうかな。30分ほどいろいろ話をしたが、もとより公式訪問ではないから、気は楽だ。彼の言によれば、タタアルスタン共和国の人口380万人のうちロシア人とタタアル人が半々、タタアル人はモスコウに約100万人いるし、他の地区にいる人を合わせるとロシア人の次に多いのはタタアル人になるのではないかという。

ソ連邦崩壊の時、タタアル自治共和国を考えたが、結局ロシア共和国の中に留まったという。部屋はこじんまりとして、国の大きさに合わせるような簡潔なものであったが、大統領の態度は悪くなかったし、こちら側からのお土産に対してささやかなお返しもあった。

バスで空港に行く。17時05分発のモスコウ行きの飛行機に乗る。相変わらずの混みようであった。席の指定はないというので前の席にいたら、別のスチュワーデスがきて、一五のA、Bに移らされた。どうしてそうなるのかわからないが、このへんがいい加減なところである。狭い窮屈なアエロフロートの座席に座って窓外眺めながら、これでカザンの街にもエラブガにも来ることはもうないのかなと思うと胸が詰まるようであった。