iv. 1950.12-1953

流刑地にて

さて、馬橇に乗り三日後、寂しげなベイ村という所に着き、赤羽さんは大きな丸太小屋を四つ五つに仕切った部屋にダーシャというロシア人と一緒に住むことになった。そこでは自分で働いて生活費を捻出しなければならなかった。掃除婦の仕事があったのだが、きゃしゃな体の赤羽さんには厳しすぎた。半年間の移動の旅の間にすっかり精力を使いはたして、三十七キロの体重が、五、六キロは減ってしまっていた。その時ウクライナの女のたくましい腕がどれほど羨ましかったことか。それで生活の糧は刺繍の仕事となった。

ある日ダーシャと一緒に村の店から、穴倉のじゃが芋の選別を頼まれて出かけた時のことを赤羽さんは次のように書いている。食料の困窮と将来への不安がうかがわれる。「穴蔵は寒く、暗い。泥まみれのじゃが芋はほとんど凍っているが、その中から腐った芋を選り分けていく。選っても選っても、芋の山はなかなか小さくならず、石油ランプの乏しい灯で目がちかちかして来る。ダルマストーブの暖気でとけた芋の土が、べとべと手につく。穴蔵の中でなら、芋は食べ放題という条件だったので、昼はストーブで芋を焼いて食べた。一度凍った芋は、皮が赤味を帯び、さつま芋のように甘くて、私は好きだった。夕方になると、ダーシャはよさそうな芋を体の方々に隠した。長靴の中にまで入れた。私は盗みは嫌いだったが、ダーシャの機嫌を損ねることも煩わしかったので、何個かを服の中に入れた。芋の泥が身体について、いやな気持ちだった。1951年の正月三が日は、こうして芋の選別に明け暮れた。私の頭には、仕事のことが絶えず重くのしかかっていた。手持ちの百ルーブルのお金では居食いしようにも先が見えている。頼みの刺繍も、みなが最低生活をしているようなこの村では、どうも期待薄のように思われた。

このエニセイ河のほとりの村には四百人の住人がいて、その内百人が流刑人、その他は自由人であった。川岸には貯木場があって、長い冬の間河が凍っている。その河と森だけがベイ村のすべてであったので、村の男たちはほとんど森林の伐採を仕事としていた。女でも森で働き、よい給料をもらう者もあった。

流刑人達はこの場所を出ることを許されていなかったので、これは日本に昔あった「島流し」のような生活だった。耐え難い生活の現実ではあったが、かろうじて共に生きる仲間がいたので、流刑の人たちは頼り合って生きていた。流刑人はロシア人のほかに、ウクライナ人、ポーランド人、ラトビヤ人、グルジヤ人、ドイツ人、中国人、朝鮮人、フィンランド人。そして日本人は赤羽さんただ一人。その中には住み慣れた我が家から突然強制移住された人もいて、そんな人達は、急激な生活の変化と自由の喪失に途方に暮れていた。より過酷なラーゲリ生活を経てきた赤羽さんには、既に慣れていた環境だったので、その人達をとても気の毒に思った。

 

雪かき雪落とし

雪かきの仕事が命令が来たのはある二月のことだった。大雪の中であちこちの道路が寸断されていたのだ。赤羽さんは十五歳の時に胸を患って肋骨を二本とり、スコップ一杯の雪さえ持ち上げるのがやっとでとてもそんな重労働ができる体ではなかったので、ラーゲルでは労働はずっと免除されていた。その雪カキのノルマは距離五十メートルのところに幅1メートル、高さ五十センチの道を作ることだった。それでも他の人の半分だったのだ。「私は木のスコップを雪につきさした。三、四回ふり上げると、もう目は霞み、腰はがくがくになった。投げたつもりの雪はあらぬ方に飛んで、道らしいものは一メートルもできない。息だけはずみ、あまりの不甲斐なさに私は呆然とした。」そんな赤羽さんに配給係りの男はコツを教えてくれた。それで少しは道らしいものができたのだが、ノルマの達成には時間がかかり、陽のくれた大きな森にたった一人残されてしまって、恐怖と焦りから心臓が破裂しそうに高鳴った。ようやく河を見つけ、それに沿って村までがむしゃらに歩いた。「こんな所で死にたくはない。どうしても日本に帰りたい。」と思いながら。

次には貯木場の雪落としの仕事が来た。川岸に何百本も積まれた材木の上に登り、端一メートルの雪を掻き落とす作業だった。丸太の上から転がり落ちたら死んでしまう。が一日十ルーブルの賃金には変えられなかった。滑らぬよう気をつけながらスコップで雪掻き落とす。赤羽さんはただ黙々と作業を続けた。他の人が休んでいる間も働き続けてようやく仲間の速度に追いついた時、赤羽さんにはある感動がこみ上げて来た。「私はしばらく、胸が一杯になって、かき取られた雪の下から現れた煉瓦色の木の肌を、半ば恍惚と見つめていた。こんな重労働ができたことが、私には夢のようだった。体操の時間さえ休まねばならなかった私が、零下三十五度のシベリアで、男のように頑丈なソ連の女に混じって働いていている!働けるのだ!立派に!私は雪の上に滑り降りた。丸太に背を寄せると、熱いものが目にこみあげてくるのを感じた。嬉しさとともに、私の心は感謝で一杯になった。私に、こんな力を授けてくれた目に見えぬ大きな力に。」

「『ありがとうございます。神様、私にもできました!力を与えて下さった貴方に感謝いたします!』その神が何であるかは、私にもわからなかったが、この時ほど私の心が祈りと感謝で満たされたことはなかった。私はしばらく、雪の上にひざまずいたままだった。大連時代、母がやかましく私に信仰をすすめていたことが思いだされた。私の弱い身体を、信仰によって少しでも良くしたいという母の願いであった。私はそれが煩わしく、よく母と衝突し、結局は母の意志には従わなかった。奇しくも、母から遠く離れてしまった今、私は祈りの心を天から教えられたのであった。」

その後も色々な仕事が回って来ると、赤羽さんは生きるために、どれも一生懸命にこなした。村や森に貼る掲示板を書く「看板書き」の仕事。ソ連人が書いた間違いだらけの看板とは違って、丁寧に仕上がった看板は評判となった。リューマチの痛みを我慢しながら、雪落としや刺繍は続けた。冬を越えるための大切なじゃが芋の植え付けもあった。このような労働と、栄養不足とリューマチで、老婆のような姿になってしまった。

 

スパイへの誘い

ある日、村の巡査に呼び止められた。前にクラスノヤルスクで渡された書類の国籍が空白になっていたので、それについて嘆願書を出したことがあり、そのことを聞かれた。しかし、その時事務所には薄気味悪い不審な男がいたため、赤間さんはとても不安になった。またどこかへ移動があるのか。何もわからないまま運命が翻弄され続けてきたため、闇のような不安が更に広がった。

ベイ村の生活には、自由な日本の社会とは大きく違うことがあった。それは常に何かに怯えていなければいけないという脅威。「私たちの後には何百、何千の監獄があり、ラーゲルがあった。そこにひしめく何十万何百万とも知れぬ囚人たち。常にどこかで目を光らせている警察と党員たち。いつまた、あのラーゲルへと逆戻りさせられるか知れない不安。言葉の端々にまで耐えず気をくばっていなければならぬ緊張。こんな社会に、真の安住があるわけがなかった。」

事務所から使いの老人が来て、まず官給品は皆返すようにと告げられた。数少ない荷物をまとめて家を出る。知らせを聞きつけた女たちが次々と集まってきた。涙を必死にこらえて別れを告げ、河まで降りるとあの不審な男が銃を持って小舟の中で待っていた。河は静かに澄み渡り、水の上を折れた小枝が草の葉をからませて流れて行く。「あれはまるで私のようだ。」と赤羽さんは思った。「私は不思議に恐くはなかった。もう散々運命にもてあそばれ、旅と別れを繰り返し、失うものは全て失った。この上私から何を奪えるというのだろう。まさか命ではあるまい。僅かに残されていた流刑地での自由だろうかどうにでもなるがいい私は妙に、開き直った気分だった。」

岸辺の村で板の上にゴロ寝して一夜を明かした後、数キロの山道を歩かせられた。そして村役場にある部屋に通されると、赤羽さんは三人の軍服姿の将校から「ソ連のために、スパイにならないか。」と聞かれたのだった。言うことを聞けば、病気を治すために立派な病院へ行けるし、その後は都会に住んで、日本人の間で見聞きしたことを我々に伝えるだけのことをすれば良い、という依頼を、赤羽さんはきっぱりと断った。「私の様子をご覧になればわかるでしょう。私はもう、長く生きられないような気がします。僅かな余生をどうぞそっとしておいて下さい。お願いです。」限られたロシア語で必死に嘆願しても、冷酷な依頼はまた続き、拒否の理由をしつこく聞かれた。「私にはできません貴方にお訊ねします。が、もしソ連の婦人が、今の私と同じ立場に立ったら、そして、スパイになることを承諾したら、貴方はどうお思いですか?彼女を、立派な婦人だとはお思いにならないでしょう?ですから、どうか私にそんなことを勧めないで下さい。日本では、年老いた両親が、私を待っているのです。スパイになれば、私は日本にも帰れないでしょうし。」三人の執拗な誘いと冷たい凝視が続く中で、赤羽さんの意志は変わらなかった。

「殺されるかのかもしれない--。そんな考えがさっと頭をよぎった。秘密を知られた相手を殺すのは、昔からよくある手ではないか。……ひとりの女がいる。彼女はともかく生きた。いま、死はすぐ彼女の隣りにある。それがなんだろう。ただちょっと隣りへ行くだけではないか。そこにはもう苦しみも悲しみもない。痛みもない。」こんなことを、考えていた赤羽さん。いつからこのような判断力を身につけたのだろうか。極限の恐怖に包まれた状態の中でもうろたえるなく、筋の通った態度を取った。シベリアを連れ回されていた間、赤羽さんは悲劇を生身で生きる中で、いつもこのように客観的に状況を把握する力があった。きっと自分の存在の現在と未来に関して「自分はここにいる理由はない。日本に帰るのだ。」という強い確信と生きる目的が満ちていたのだと思う。 長い歴史の中で、日本という国では、女性は男性中心に生きることを教えられて来た。が、赤羽さんは自分自身の力で、人間としての独立と自由の尊厳を重んじる生き方を選んでいた。歴史の流れに埋もれて見えなくなってしまうかもしれない運命にあっても、赤羽さんの精神には見事な輝きがあった。

その後はどうなるかと怯えながらも意志を通した赤羽さんに、ロシアの将校達は意外にも寛大な処遇を決めた。またベイ村へ帰って良い事になったのだ。ただし、ここで聞いた事は一切誰にも話さないという条件で。ここで、赤羽さんが実にか細い女性であったという事が幸いしたかもしれない。というのは、他の男性の抑留者達の場合にはソ連側に選ばれ、「早く日本に帰す」「もっと食べ物を与える」という手段で共産化を強要され、多くのラーゲルでそれらの一部の日本人による共産党の洗脳の嵐が吹いた。特に軍隊の上下関係の規律を強いられたままの抑留生活に不満を持っていた人達の怒りは、そこで爆発した。日本人同士の吊り上げが行われ、密告が横行し、日本人社会そのものの中に不気味な空気が流れた。多くの抑留者が、この時期の言い知れぬ苦しみについて記している。そんな中で「スパイにならないか」とソビエト側から促された場合、男性だったら、純粋な気持ちを通そうとすればするほど暴力や死の憂き目にあって迫害を受ける可能性があったのではないか。女性であった赤羽さんの勇気ある行動が、ここでは良い結果にでた事を大変嬉しく思う。それはまた、赤羽さんに与えられた運でもあっただろう。

 

再び村へ

村に生きて帰れたのは奇跡のようだった。が、スパイにはならなかった事を人に知られないように本当に気をつけた。さて、夏になって仕事が途切れ、重労働の「丸太ころがし」をやらなくてはならなくなった。貯木場に積まれた赤松を川に落し、川下に流すのだ。小枝のような体は、丸太に押しつぶされそうだ。丸太は直径二十センチから八十センチまで色々で、三人で押して川は流す。それでも動かぬ時には棍棒をテコ代わりに使った。そこには蚊とブヨの大群がいて、むき出しの腕は刺されて真っ赤に腫れあがり、目も開けていられない。

次の仕事は月給二百四十ルーブルの便所掃除婦。「娑婆にいた頃には、便所掃除婦など、考えられもしなかったが、此処では何の感慨もなく、平気で仕事に取り組んでいけた。生きて行かねば、収入を得なければ、という厳しさの前に、仕事の貴賎など問題ではなかったのである。と赤羽さんは書いている。便所はラーゲル式に、板に切った丸い穴が五つ六つ(時には一つだけ)並んだもの。仕事は、穴の周りの汚物をスコップで落し込み、あとを箒で掃いておくことであった。しかし紙もなく、生活程度の低い森に木樵たちは所かまわず手についた汚物を擦りつけて、公共の場所をきれいに使おうという意識はまるでなかった。しかも村の子供たちはそんな仕事をする赤羽さんをひどくからかって、それには閉口させられた。「便所掃除は汚い仕事で、粗末な衣服に箒を担いだ私の姿は哀れなものであった。しかし、私は嘆きはしなかった。ここは仮の生活だ。今いる自分は仮の姿だ。私には本来の、私の住むべきもっと良い世界がある。そこへいつかは帰っていける。いや、きっと帰るのだ。誰にも言わなかったが、私はこんな思いを、絶えず心に呟き続けていた。」ここでもまた、赤羽さんは孤高の人として自身の人生の行く手を見据え、自己の魂を守り、育てるのに専心することで、現実の世界の試練に打ち勝っていた。

流刑人のマキシムニコライヴィッチは50歳をすぎていたが、土地の女であるニューラと結婚して七ヶ月になる娘ネリーが生まれていた。二人は八月に草刈りに行かねばならなかったので、可愛いネリーの子守を赤羽さんに頼んだ。報酬は夕飯だけだったが、子守は楽だったし、ネリーが寝つけば、家の裏手の草の茂みで全身の日光浴ができた。これはリュウマチに良さそうだった。ニコライヴィッチは流刑になる前には相当の生活をしていたらしく、教養もあった。だが妻のニューラは村人で無教養であったので、寂しいらしく、そのうさを酒で紛らわしているようであった。彼は赤羽さんの看板描きの仕事になくてはならない人で、森に立てる掲示板の原稿は彼が皆書いてくれた。しかし彼はある寒い冬の日に川で溺れて死んでしまった。もう彼は故郷へは帰れない。この事件は必ず生きて日本に帰るつもりだった赤羽さんを滅入らせた。

皆が祝日にウオッカを飲み楽しみに浸る時、赤羽さんはそれにとけ込めなかった。

そんなある時、一人で河におり水を見ていると、暗黒色の水底から何かに招かれていたような気がした。そこで静かに凍死する自分を考えた。もう苦痛は終わる、辛い毎日の生活もない….ハッとして我に帰り青空を見上げると、日本の肉親の顔が浮かんだ。その時、何年経とうと自分を待っていてくれる肉親のために、頑張らなければならない、と思い直したのだった。

春の訪れと共に凍っていた河が動き出した。大地が動くような壮大な光景。そして四月が来て、じゃがいもとキャベツの季節がやって来た。シベリアでは野菜で手に入るのはこの二種類だけだった。夏には自然の野ぶどうが手に入った。赤羽さんは仕事はスローガンを書く看板書きを必死に続けたのだが、二度目の革命記念日が来た頃には一ルーブルも賃金がもらえなくなって困った。赤羽さんは日本人でソ連の共産党員ではないのに、「社会的な責務を果たしただけだ」と取り合ってもらえなかったのだ。それから少しすると便所掃除の仕事さえもなくなってしまった。かろうじて託児所の保母の仕事が舞い込んで来て、それで命をつなぎ、あとは八月までにかけて森での丸太ころがしの労働に駆り立てられた。いつもこのようなギリギリの状況で少しばかりの生活費を得、かろうじて暮らしを繋いでいたのだった。