当時の日ソ関係

この項は、日ソ間の種々な外交関係などについて述べることは目的ではないが、抑留に関係のあるいくつかの重要な問題点については、われわれ抑留者の置かれた環境を理解していただくためには必要かと思い、記すことにした。

しかし、ソ連軍の満州国などへの侵入に際して、一体、本当にどのような内容の協定が結ばれたかについては、残念ながら今までのところ、私は充分な資料を持っていない。当時関東軍の参謀として重要な鍵を握っていたと言われる瀬島龍三元中佐は、ついにその真相について語ることなくして故人となってしまった。

誰かに内々でも話をしているのではなかろうかと思ったこともあったが、誰に聞いても、その当時のことについては固く口を閉して、何も語らなかったという。

終戦時の日ソ戦に通じていると思われる人物として、瀬島元中佐の他に当時の関東軍司令部作戦部長の草地貞吾元大佐、陸軍自衛隊幹部学校戦史教官室長の中山隆一一等陸佐の名前をあげてくれた人がいたが、草地元大佐はすでに故人となり、中山氏にもまだお会いする機会がない。

当時の日ソ関係を整理しておこう。主として既刊図書の関連記述を一部借用させていただくことにしたが、部分的な引用もあり、略述したところもあるので、あえて、引用書名をあげないことにしたので、関係者のお許しをいただきたい。

シベリア鉄道を建設し、広いシベリアの大地を東西に貫く大動脈を完成した帝政ロシア政府は、極東の計略をさらに熱心に進め、当方での不凍港の確保を目指して南下を図っていた。明治27、8年の日清戦争の結果、日本が清国から譲渡された遼東半島も、ロシアにドイツ、フランスの領国を加えた、いわゆる三国干渉の結果、威圧を加えられた日本政府はやむなくこれを清国に還付せざるを得なかった。

ところが、ロシアは明治31年、遼東半島の旅順と大連とを租借し、旅順に軍港をつくり、さらに朝鮮にまで触手を伸ばして日本の存立に脅威を与え始め、結局、そのロシアに抗して立ち上がった日本との間に明治37年に日露戦争が起こった。日本は3月10日の奉天大会戦、5月27日の日本海大会戦でロシアの陸海軍を破り、翌39年のポーツマス講和で樺太の南半分を取り戻した。

この日露戦争は、ロシアの極東政策を挫折させたばかりでなく、国内の革命運動に強い刺激を与え、帝政ロシアの基盤を揺るがすことになった。

そして大正4年に勃発した第一次世界大戦の中途でボルシェビキ革命によってロマノフ王朝のロシア帝国は崩壊し、レーニンの率いるプロレタリアートと農民による革命政府が出現した(いわゆる十月革命)。

この十月革命後、ソ連政府には大正7年2月、プレスト・リトフスクにおける日本との講和会議不調後、他の連合軍と日本との共同によるシベリア出兵、尼港事件などがあったが、大正14年に北京で日ソ基本条約が締結され、正常な国交関係が回復した。その後、日ソ関係は次第に好転したが、昭和6年に満州事変が勃発して自体は一変し、ソ連は対日警戒心から極東の軍備拡充に努めるようになった。

その間、中国側の提訴を受けた国際連盟は昭和7年にリットン調査団を満州に派遣したが、その調査団の報告書に反発した日本は、昭和8年3月、国際連盟からの脱退を通告したのである。これによって孤立化した日本は、昭和11年にドイツと日独防共協定を結び、次いで翌12年にイタリアが参加し、日独伊三国の防共協定が成立した。

昭和12年に日支事変が起こると、ソ連は、蔣介石政権を援助して事変の長期化を図るとともに、日本軍を牽制する目的で国境紛争をしばしば惹起させるようになった。昭和14年5月にノモンハン事件が起こり、一時は重大な危機の到来を思わせたが、大事に至ることなくすんだ。しかし、ソ連軍の優越な近代兵器による我が軍の損害はまことに大きく、当然充分な反省の資料となるはずのところ、軍部はもっぱら戦況の秘匿を図るとともに反省をも埋没させてしまった。このことは、いわゆる大東亜戦争におけるわが軍の戦い方にも大きく影響を与えるはずのものであった。

ところで、日本と防共協定を結び、イタリアとともに、いわゆる枢軸外交を展開していたはずのドイツが昭和14年8月、日本がソ連とノモンハン事件で戦っている最中にソ連と独ソ不可侵条約を結ぶに至り、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」と宣言し、総辞職をしたが、9月には第二次世界大戦が勃発した。

このような情勢の下、日本政府は日ソ関係の調整を図る方針を打ち出し、昭和16年4月に日ソ中立条約が調印された。

同年12月に始まった大東亜戦争の期間を通じ、日ソ間の関係はこの中立条約によって支えられ、関東軍の精鋭部隊も南方、支那方面へ転進をして、後には数こそ60万といわれたが、召集兵を中心とした装備の不充分な関東軍が残されていた。

昭和20年4月、ソ連政府は中立条約の不更新をわが国に通告し、8月8日には当時なお有効だった同条約を無視して対日宣戦を行ない、翌9日には満州、北朝鮮、千島、南樺太に侵入し、同月下旬までにこれらの地域を一方的に占領するに至った。

戦況が日々に悪化の一途を辿っていることは、大本営の公式発表にかかわらず、われわれはかなり正確に知っていた。それは、軍司令部に配属されていた大本営通信なる部隊からの情報であった。この部隊は大本営と各軍との間の連絡通信に当ることが任務であったはずであるが、もっぱら米軍の短波放送を聞いて、ニュースをわれわれ軍司令部の将校に提供してくれていた。

この短波放送で、日本政府が終戦を覚悟し、中立関係にあるソ連政府を介し、米英支の三国に対する斡旋を依頼したが不調に終わったので、日本政府は近くポツダム共同宣言を受諾せざるを得ないことなどを流しているのを聞いていた。