2. 看護婦の証言(新聞記事)

2014年(平成26年)7月26日(土曜日)
読売新聞 シベリア抑留 看護婦の証言

終戦当時、派遣されていた旧満州からシベリアに抑留されていた99才の元日本赤十字社従軍看護婦が来月下旬、東京、京都、大阪で上映される記録映画で体験を語る。シベリア抑留には看護婦や電話交換手ら女性もいたことが知られているが、軍人と比べ、資料が乏しい。戦後69年、「歴史の空白」に目を向けさせる証言である。
(大阪本社編集委員 井手裕彦)
 
広島市在住の高亀(旧姓・林正カツエさん。28才だった1943年7月、日赤広島支部から旧満州北東部のチャムス第一陸軍病院に配属。45年4月からは現地の高等女学校卒業生らを看護婦に養成する教育隊の班長に就いた。
ソ連軍の侵攻を知ったのは8月9日未明.爆撃音が鳴り響き、入院患者の移送後、逃避行が始まった。

「助けて」部下の悲鳴
■ 渡された青酸カリ
上司の大尉に呼ばれて渡されたのは、100人余りの隊員全員分の青酸カリ。もしもの時のためだった。
髪を短く刈り、軍服姿になって胸ポケットに青酸カリを忍ばせた。

ソ連軍はすぐに部隊を取り囲んで全員を捕虜にし、「女性を差し出すように」と強要してきた。
司令部がソ連将校に懇願して難を逃れた。だが、8月末、女性部隊で夜道を移動中、ソ連兵の四輪駆動車が近づいてきて、一人の隊員が車に連れ込まれた。

戦地の勤務経験があった班長の高亀さんは最後尾にいて、「もう歩けない」という年下の隊員を励ましていた。点呼をとると、拉致されたのは同じ班の班員と判明。
草むらで亡くなっていたことが約50年たってからわかった。
「『班長殿、助けてっ!』という悲鳴が今も耳に残っています。」 思い出す度、涙がこぼれる。

厳寒の収容所生活
■ 重労働で倒れる
45年10月、女性部隊は、ハバロフスク郊外の将校収容所を経て、山奥の収容所へ移送され、「囚われの身を思い知った。」 自動小銃を構えたソ連兵の監視の下、薪取りと農場でのジャガイモ堀の毎日。素手で雑木を折ったり、土を掘り返したり。
凍てつく寒さで感覚を失った手から血が流れた。
食事はコーリャンに水を加えて炊き、上澄みの汁をすする。床に毛布を敷き、仲間と体をくっつけ合って寝た。

ソ連兵が「ダモイ」(帰還)と触れて回り、喜んで荷物を持って出て行くと、ウソで腕時計や万年筆を没収された。しばらくして、発熱と下痢に襲われた。
意識もうろうとなり、やせこけた日本兵らと一緒に病院送りとなった。

■ ソ連婦長の看護
気がついたのは、ソ連の婦長から風呂に入れられている時。
栄養剤をスプーンで口に運んでくれ、元気になった。
「あの手厚い看護がなければ、命を落としていたかも。」

病院では、収容所の記録で高亀さんが看護婦と知っていた。別の病棟の婦長から「静脈注射ができるか」と聞かれ、約80人の日本兵が入院していた内科病棟を手伝うことになった。彼らから「収容所で戦友の死体がトラックに薪のように積まれ、何台も運び出された。自分たちは生き残りだ。」と聞き、懸命に働いた。 婦長に拉致された隊員のことを話したら、「自分も戦火に追われて体一つで逃げてきた。親も兄弟も家もない。あなたは帰る家があり、必ず帰れるのだから。」と言われた。戦争の犠牲は戦勝国も変わらないことを知った瞬間だった。

47年6月、婦長から帰国指令を聞いた。案じていた女性隊員らと日本への出発港のナホトカで再会した。周辺の病院や収容所に分かれ、働いていた。舞鶴港に引き揚げ、原爆投下の惨状が残る広島へ。1年10か月の抑留を終えた。戦後も、広島赤十字・原爆病院の総婦長や夫の歯科医院の手伝いで看護婦を続け、2人の娘を育てた。

解説スペシャル
「捕虜イコール軍人、男という観念が強く、女性の抑留者は忘れられがちな存在だった」と、シベリア抑留研究の第一人者、富田武、成蹊大名誉教授は言う。
全国抑留者補償協議会会長だった故斉藤六郎氏が著書で<二百数十名の女性が抑留され、うち三十数名が受刑者だった>と記しているが、総数ははっきりせず、1000 人以上との説もある。捕虜にされたのは、軍や特務機関にいた看護婦や電話交換手、タイピストら。通訳らはスパイ容疑をかけられ、「戦犯」にされた。
抑留中に死亡したり、ソ連に残留して帰国できなかったりした女性もいた。

ジュネーブ条約では49年まで女性の捕虜への配慮の詳細な規定はなく、処遇は収容所の裁量だった富田さんは推測する。手記や記録もわずかで、抑留を紹介する国の施設、東京・新宿の平和祈念展示資料館でも従軍看護婦がソ連の婦長にもらった軍服と、引き揚げ時の写真があるだけだ。

ロシアから提供された70万件の捕虜登録記録カードを保管する厚生労働省は生別の分析をしていない。
シベリア特別措置法で国の責務に定める強制抑留の実態調査の一環として女性抑留の解明を進めない限り、風化する恐れがある。

* シベリア抑留

日本降伏後、ソ連軍が旧満州や樺太などから日本兵や軍属、民間人57万5000人(厚生労働省推計)を
ソ連領やモンゴルの収容所に送り、鉄道敷設や森林伐採などの強制労働を課した。

抑留は最長11年に及び、餓えと寒さで5 万5千人(同)が死亡したとされる。