昭和20年8月15日、朝の5時過ぎであったか汽車は京城に着いた。町の角々に半紙大の張り紙が夜明けの薄明りのなかに浮んでいる。近づいてよく見ると、「本日正午に重大ニュースの発表がある」ということであった。
私にはピンとくるものがあった。軍に配属されている大本営通信班が傍受している米軍の短波放送は、連合軍がポツダム宣言の受諾を日本に迫っていることを連日放送していたからである。
ああいよいよポツダム宣言受諾のニュースかもしれないと思いつつ、備前屋という将校の定宿に着いた。南大門に近かった。一休みをして朝鮮軍司令部に行くと、経理部は竜山高等女学校に疎開したという。女学校はちょっと小高い丘の上にあったが、そこへ12時前に着いた。校庭には全校生徒が集められ、経理部の将校、下士官、兵の全員も一緒に並び、テーブルの上にはラジオが置かれていた。
やがて、正午。天皇陛下の玉音放送が始まった。最初は「しっかり戦え」とおっしゃっているかのように聞こえたが、次第に悲痛な調子に変わった。ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をするという趣旨のものであった。ラジオの音は低く、時にかすれたところもあったが、明らかに聞き取れた。
校庭の女生徒達の間からすすり泣きの声が洩れてきたが、予期したこととはいえ、ああこれで戦争が終り、全てがムダになったのかと思うと、心の内に空しくポカンと大きな空洞が空いたような気がした。
さあ、どうなるんだ!経理部の中は、蜂の巣を突っついたような騒ぎになった。 皆、眼がうつろになっていた。宙を睨んで絶句しているような将校もいた。
経理部の執務室に当てられていた部屋の中は、あちこちと忙しげに人が走り歩き、声高に何か言い交わしているだけで、さあ、これから軍はどうするんだということは全く見当もつかない有様であった。当たり前のことである。負けた経験のない日本の軍隊に、負けた時の用意や準備があるはずのものではない。
私も、しばらくその混乱のただ中に佇んでいた。仕方がないので、軍司令部の参謀部へ回ったが、ここも全く手のつけられない混乱の中にあった。私は、司令部の門を潜ると、街に出た。空は抜けるように青く、高く澄んでいた。 白い飛行機雲を二条クッキリと曳いて米軍のP38が二機飛んでいた。
私は夢遊病者のように街中をただただうろついていた。漢口に残してきた戦友達や私のそばで倒れた戦友達のことも思い浮べた。あまりにも大きな目標を喪った時の空しさにただ身を委ねているばかりであった。