『ロシア語四週間』とロシアの小説

話は前後するが、私は漢口の軍司令部にいた頃、学生時代の癖で、よく本屋の棚を覗いた。不思議なもので、内地の本屋の店頭には見られなかった本が売れずに沢山並べられていた。いつかは読む機会があるのではないかと思って、法律や経済の専門書をかなり買って部屋に並べておいた。

実際は、昼は仕事、夜は酒の毎日で、ほとんど読まず仕舞いであったが、司令部が漢口から移動する時には、400冊余りになっていた。とても運べないので、古本屋を呼んで売り払ったが、20万円ほどになったと思う。猛烈にインフレが進行していたから、買値の何倍にもなっていた。

その時、売り払わずに残しておいた数冊の本のなかに『ロシア語四週間』があった。前の年、昭和19年の春、北京へ向けてわれわれ経理の見習士官が転属を命じられた時、私は、『支那語四週間』のほかに『ロシア語四週間』を買った。当時、私は、いろいろな外国語に興味をもっていたし、支那語は当然として、北京には白系ロシア人がかなりいると聞いていたので、習得する機会があるかなと思ったからであった。

北京や漢口では役に立たなかったその本を残しておいたのは、われわれの部隊が満州のハルピンに転出すると聞いていたからであった。ハルピンの白系ロシア貴族の美人の話は有名であった。彼女達とロシア語で話ができたらななどと思っていたのかもしれない。

ポシェットからの雪の行軍にも、それは捨てなかった。手紙の類はかなりあったが、定平を発つ前の晩であったか、風呂場のかまどで全部焼き棄てた。許婚者や父母、姉妹などから来た手紙の類で、封筒を捨てて中味だけを綴じてあったが、かなりの厚さがあったし、ソ連兵に取られても(取るわけはないと思ったが)残念だと思った。かまどのうす赤い光で、走り読みしながら1枚ずつ火にくべた時は、本当に人生の虚しさを感じた。『ロシア語四週間』は、その後、随分役に立った。

エラブガの収容所に着いた私は、戦友達の要望に応じて、この本を2週間ずつ上、下に2分割した。この分冊が収容所を転々と回し読みされるようになって、時に私の手元になかなか帰ってこないこともあった。ロシア語の格変化は大変であって、ドイツ語の比ではない。しかし、言葉の配列はわりといい加減でも通じた。

ソ連は本やレコードが大変安い。政策的にそうなっていた。面白そうな小説などは余り見かけなかったが、辞書の類いはかなり沢山の種類のものがバザールで安く売られていた。

ロシア語と、英、独、仏、との間の辞書も一とおり買った。ロシア語と日本語の辞書がなかっただけにこういう辞書がかなり役に立った。

ソ連の子供達は学校で外国語として英語を選択できるようになっていたが、辞書以外の英語の本はほとんど街では見当たらなかったと思う。

収容所にはドイツ人の捕虜のためのビブリオテークがあって、『マルクス・エンゲルス全集』をはじめ、かなりの本が揃っていたし、私は読書会のために『共産党宣言』を訳し、『資本論』まで無謀にも訳しかけた。しかし、そういうやかましい本のほかに、ロシアの小説、それも現代のものの独訳などもあった。

そのなかの1冊に、オストロフスキーの『鋼鉄は如何に鍛えられたか』があった。独訳で800頁はあった。この小説の主人公はコルチャーギンという共産主義革命の闘士で、岩波文庫に訳書があったので表題は覚えていたが、読んだことはなかった。

それを読み始めたが、初めはドイツ語の単語もわからないものが多く、字引のお世話になり放しであったが、読み進むうちに字引の助けもだんだんと必要なくなり、多少わからない単語は読み飛ばしても意味が大体汲み取れるようになった。全部読むのに、そう1ヶ月以上かかったような気がしたが、読み終えた時は一仕事したという嬉しさがあった。