ソ連側は終戦後、日本軍の将兵を捕虜として、ソ連領内で労働に従事させることはあらかじめ計画していたようである。
ソ連は第二次世界大戦で約2万5千人の兵力を失ったとい。国内には若い男性が不足していたので、日本軍の将兵を当分の間、その補充に使うことを考えていたという。
ただ、前述したように、日本軍将兵60万人をソ連領内に運び入れるについては、何らかの形で日本軍の首脳部との間で話し合いが行われていたに違いない、という思いが、われわれ抑留者には強い。その問題に関する直接の責任者であったといわれる関東軍の瀬島龍三中佐は、最後まで全く口を閉ざしていただけに依然として疑念をもっているが、彼もすでに没し、関係者と思われる人々も鬼籍に入ってしまった今となっては知る由もない。
ソ連は、日本人将兵五千人を一団とした編成を考えていたという。エラブガに収容された将校集団は約1万人であったから、A、B両ラーゲルに5千人ずつ収容されることになった。エラブガに収容された者以外にも、関東軍の将校はいたわけで、それらの人々は下士官、兵の部隊の指揮官としてそれぞれの収容所へ送られたのではないかと思っている。
Aラーゲル5千人の中には、若干名であったが下士官兵もいたし、将校は全部が佐官級、尉官級であったが、ただ一人、杉野少将が将官級でいた。彼は、日露戦争の旅順港閉塞作戦の時、広瀬中佐が船内を3度探したという杉野兵曹長の子供であると聞いていた。広瀬中佐はその捜査で遅れたために敵弾を頭に受けて戦死したと言われている。戦前の小学校で唄われた唱歌で有名であった。
ちなみに、広瀬中佐はロシア大使館の武官としてモスコウに勤務していた際、偉丈夫としてロシアの女性達に大変評判の人で、貴族の令嬢で深く慕っていた人もあったという。そのロシアとの戦いで、砲弾に当たって亡くなるというのも、何かの悲しい巡りの合わせではないか。
それはそれとして、5千人のAラーゲルは約60の中隊に区分され、われわれは「抑留者」であって「捕虜」ではないと主張していたが、収容所では明らかに「ボエノ・プンヌイ」(捕虜)と呼ばれていた。一般の中隊の他に給与、技術、機械(自動車)、病院、浴場(バーニャ)、演芸などの中隊もあった。
Aラーゲルには、これらの中隊を統括する日本側の責任者として主席が置かれ、その下にいわゆる連隊本部があって、ラーゲルの事務を扱っていた。
人員の掌握などを担当する庶務主任、給与を担当する給与主任の他、被服主任、技術主任などのポストが置かれていたが、このエラブガの将校収容所はモスコウ直轄といわれていた。このA、B両ラーゲルを監督する管理局長は近衛中佐が任命され、その局長の下に給与その他の部署の担当者が置かれていた。