昭和20年の10月終わり頃になって、定平の収容所を出ていよいよ内地へ帰還できるという話が流れてきた。軍司令部には、ロシア語の大変達者な通訳が一人いた。年とった白髪の軍属で、会話も文章も自由自在であった。最も、ソ連人に言わすと、彼の使うロシア語は、帝政ロシア時代のものであるという。日本側の別の通訳に言わせると、「あれは、侯文だよ」ということであった。
しかし、毎日のようにソ連側と接触している彼は、貴重な情報ルートでもあったので、われわれは彼を大事にしていた。その彼から10月末にはダモイ(帰国の意)できるというニュースが流れてきた。単調な収容所の生活に飽きていたわれわれは、声をあげて喜んで、出発準備に取りかかった。といって、大した荷物があるわけではない、目ぼしいものは、あらかたソ連兵に略奪されていた。
定平から遠くない興南に港があり、そこには日本窒素の大きな工場があった。終戦前に一度工場を視察に行ったが、窒素を固定する際の触媒に白金を使っているので、大変貴重な設備であるということであった。もちろん、ソ連軍はこの工場を接収していた。
これは後にわかったことであるが、ソ連軍は満州や北朝鮮にあるあらゆる工場施設を解体して、ソ連領土内に運び込んだという。鞍山の製鉄所や撫順の炭坑の設備も、鴨緑江の水豊ダムの発電設備もすべて撤去したという。
後日、シベリア鉄道を西へ西へと送られる途中、満鉄だけでなく、華北鉄道、華中鉄道の貨車を沢山見た。畳の類いに至るまで、山のような物資の野積みを沿線の各駅周辺で見かけたから、あらゆる設備や物資を強奪して、国内に運び込んだことは事実だと思う。
ある資料によれば、「ソ連軍が没収した国幣は、総計七億六千万余円、貴金属類も多額に上り、工業施設、物質の撤去による被害総数は12億3,316万4千ドルに上り、これが搬出に要した輸送トン数は99万トン、使用貨車は3万輌以上に上った。ソ連軍はこのほか日本軍民倉庫より押収した莫大な兵器や被服の一部を中共軍に与えて、その戦力の育成に努めた。なお国民政府は、撤去施設の返還を要求したが、ソ連はあくまで戦利品としての主張を押し通して肯じなかった」という。
さて、興南の港に着いたわれわれを待っていたものは、まず荷役作業であった。われわれ将校グループはそれまで別行動であった下士官、兵のグループと一緒になった。私の部下であった調弁科の中野軍曹などの懐しい顔もあった。彼らは日焼けして元気そうであったが、汗をたらしながら明太などの大きな荷物を担いで、船のタラップを上り、船倉に運び込んでいた。
港に着いたわれわれも、その荷役仲間に入れられた。麻雀でたるんでいた身体には、久しぶりの肉体労働はかなり堪えたが、やがてダモイ(帰国)かという気分で苦にはならなかった。興南の港には、真黒な貨物船が何隻も碇泊していた。秋も終りに近い海は汚れて鈍く光っていた。