序文

575千人以上と言われるシベリア抑留経験者の多くは男性であり、戦争中の軍に属するメンバーの一人として囚われた人達の場合は、殆どがそのまま団体行動をしていた。そのため、坂間文子さんという女性がたった一人で10年もの抑留生活に耐え、帰還を果たしたと知った時、実に驚くべきことだと思った。どうして女性である彼女が、そんな信じられない運命を一人たどることになったのか。この「雪原にひとり囚われて」という本を読み始めた時、まずその理由を知りたいと思った。この本は、小さな一日本人女性が命をかけて戦ったシベリア抑留10年の赤裸な記録である。

坂間さんは、当時は結婚前で赤羽文子さんという名で、満州の大連で生まれ、大連で育った。当時の満州は1932年に満州国となり、日本の支配下にあった。六人兄弟の次女として、大連の日本人小学校、中学校、女学校(現在の中学と高校に当たるもの)を終えた。姉と三人の弟はさらに内地(日本)の大学で学んだが、赤羽さんは15歳の時に膿胸を患い、肋骨を二本とるなどの手術をして、身体が非常に虚弱だったせいで、大学には行かず、文部省の中等教育検定試験に合格して英語教師の資格を取ることを目標にした。自立するために独学で英語の勉強を始めたのだ。25歳の時、その試験に合格。そしてその頃、1943年の一月に大連のソ連領事館で、日本語を教えるようになった。この仕事を承諾した時の気持ちを、赤羽さんはこう書いている。「一つには収入のためであり、いま一つは、日本の代表として、ソ連人に日本語を教えるという、誇りにも似た気持ちからであった。当時は太平洋戦争のさなかで、日本とソ連の間にも、友好的というにはほど遠い、厳しい空気が張りつめていた。しかし私は、日本語を教えることは楽しみであったし、引き受けた以上は、立派に責任を果たしたいと思った。」

ここに私は自分の言語教師としての原点と同じ気持ちを感じとり、赤羽さん(以後「赤羽さん」を用いる。)に共感を持った。若い娘が語学力を生かして国際間の友好のために働けることは、願ってもない状況だ。私も大学卒業後東京で英語教師となり、喜々として高校生に英語を教え、渡米してからはアメリカの学生に日本語を教えてきた。半世紀前には日本が戦争をしていた国で、敵国の言葉であった日本語を教えることとなり、平和に向かう国際間の努力に少しでも貢献できれば、と心が躍ったものである。もし私が赤羽さんと同じ大連に生まれていたとしたら、 きっとソ連大使館での日本語教授の仕事を自分も嬉しく承諾したことだろう。

しかし、純粋無垢で人間の汚さを知らなかった赤羽さんは、時の流れと共に濁流へと飲み込まれ、浮いては沈み、混迷の中でその存在さえなくなってしまいそうな環境へと連れて行かれる。この本を読みながら、次つぎと展開する不条理な出来事に、なんども「なぜ?」と問いたかった。同じ問いを持ったに違いない赤羽さんは、理由の分からぬまま、ただただその日一日を乗り越える努力を続けなければならなかった。見知らぬシベリアという厳寒の荒野でとてつもない恥や死にもさらされ、それに耐えつつ苦しみの道を生き抜いて、日本人として見事に生還したこの稀有な女性の存在を、現代に生きる私たちは忘れてはならないと思う。戦後70年の今、その頃の経験を語れる人が一人、また一人と他界される中で、赤羽さんがきちんと記した記録は、私たちが当時の状況を理解し、そこから何かを掴み取るために残されているのだ。

以下、本書の中からの抜粋を加えながら、赤羽文子さんのシベリアでの経験のあらましをご紹介したい。絶版であった本書が、幸い2016年末に復刊ドットコムより再出版され、手に入りやすくなったのは、とても意味深いことだと思う。